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『麒麟がくる』 考察総括

更新日:

はいどーも、SQでござい。
しばらくご無沙汰しておりました。
本考察も数回書いて参りましたが、前回(第26話分)の作成途中段階辺りから通常業務の方で手一杯な日々が続きまして、最終回はおろか総集編の放送も公式WebサイトやTwitterアカウントの閉鎖もとうに過ぎて今日に至った次第。
まぁリアルタイムでは放送終了しても2周目以降を視聴する人もいるらしいので、引き続き各話ごとに何か書き連ねても良かったんですが、本編も一度締め括られている以上は考察も何もないとも思うので、このシリーズもここで一先ず終わりにしようかと思う次第。

ではでは、今回一際長いですが参りたく。

  • おことわり
    本考察は(元々世界史専攻だったので)日本史の知識に乏しい筆者が勉強がてら記した物です。
    したがって世界史上で当時何が起きていたか等も見たいので、年月日は西暦(グレゴリオ暦が導入される1582年10月以前はユリウス暦)表記に換算して記載しますが、この点何卒あしからず。

本能寺の変

安土桃山時代の一大転機にして目下日本史上最大級の謎との呼び声も高い「本能寺の変」。
過去の歴代大河では概ね光秀の怨恨を燃料に発生し、奮戦空しく寝間着姿の信長が炎の中に消え行くのが最早恒例となっており、筆者が初めて見た『秀吉』(1996年)のそれは故・渡哲也氏の好演により(後年のNHKの日本史系番組でもしばしば使い回される程度には)壮烈を極めたものであった。
では、本作の本能寺の変は如何だっただろうかと言うと、怨恨説ではなく落とし前説というのがしっくり来るのではないかと思われる。
かたや良くも悪くも理想主義者、かたや発想が常人のそれから割とズレた承認欲求の塊。これに蝮の娘も混ざって陶冶されたのが本作の「織田信長」という人物である。永禄の変により足利義輝が斃れた後はその弟・義昭を後継に奉じて「新しき幕府」を目指すが、その蜜月は奸臣・摂津晴門の干渉も手伝い次第に軋轢へと変貌する。
けだし信長がのし上がる為に行った事の基本方針は徹頭徹尾「邪魔者の排除」だった様に見える。これは政敵を粉砕している内は良かったが、比叡山や有岡城の例に見られる通り女子供にまで手にかけるレベルであり、果ては朝廷へも干渉するに至る程であった。戦の無い世を作る為に手を貸して来たはずの男が、およそ自身の夢想した"国"を構成する人々をもなき者にしようとする。松永久秀の『平蜘蛛』を巡る顛末にも見られる通り、「麒麟を連れて来る者」への軌道修正の不能を意味するのであるならば、道を外れて作り上がってしまったこの化物の様な男の覇道を(手を貸して大きくさせた者として)どこかで止めねばならない――そう思い立った末が今回の本能寺の変の様に見える。怪物を始末しようとするヴィクター・フランケンシュタイン…と言うよりは、堕ちた人々を洪水やメギドの炎で滅ぼそうとするヤハウェの様な構図にも見えるかも知れない。

時に、本能寺の変に至るフラグとして大昔より逸話が諸説有り、過去の大河作品でも

  • (諏訪での)折檻(『国盗り物語』(1973年)、『利家とまつ』(2002年)、『真田丸』(2016年))
  • 母磔刑(『秀吉』)
  • 恵林寺成敗(『軍師官兵衛』(2014年)

…等々、様々な視点から採用されて来たが、本作においては饗応役罷免と愛宕権現参籠(ただし所謂「愛宕百韻」のくだりは無し)が目を引く。ただし直接的なフラグと言うよりは決起に至るまでの経路といった印象で、ウェイトの有る要素として扱われなかった様に思われる。また斎藤利三を巡る稲葉良通との問題も従来はフラグの一つとして採り上げられる様だが、本作では描写こそ有ったもののやはりさしてウェイトの有る要素として扱われなかった。
筆者としては、特に母磔刑が採り上げられなくて心底良かったと思う次第である。

麒麟はきたか

顧みれば、本作タイトルと誰が主人公かが告知された当時は漠然と光秀を麒麟に見立てたポジションでストーリーを進行するのだろうかと筆者は考えていたが、始まって見れば「麒麟」は主に舞台装置的なポジションで物語に絡んで行った様に思われる。十兵衛も本編では一介の青年として始まり、「麒麟を連れてくる様な君主」を捜す為に奔走する訳だが、本編を終えてみれば正に十兵衛こそが麒麟そのものだった様に思われて、結局期せずして第一印象に帰結した印象を覚える。                                                                                                                                           
そしてもし十兵衛=麒麟とするならば、筆者としては「獲麟」の故事を連想せずにはいられない。
麒麟という聖獣伝説の出典元である古代中国にはこの様な話がある。

魯哀公十四年春、狩大野。
叔孫氏車子鉏商獲獸、以爲不祥。
仲尼視之、曰「麟也」。
取之、曰「河不出圖、雒不出書、吾已矣夫」。
顔淵死、孔子曰「天喪予」。及西狩見麟、曰「吾道窮矣」。

『史記』孔子世家

戦乱の続く世の中で「仁(=他者への親愛の情、優しさ)」を説いた孔子だが、いまだに世が平らかにならぬ中で瑞祥であるはずの麒麟が捕らえられ、打ち捨てられた事を聞くや「いまだ世に聖人君子は現れず、それどころかその兆しとなる瑞祥すら現れない。私はもうおしまいだ」とこれを大いに嘆き、筆を置いたという。この故事は後世「獲麟」という成語になり、物事や人生の終わりを意味する言葉となった。或る意味で最終回に相応しいものと言えよう。
…と思ったのだが、幸い本編においてはそこまでは至らなかった。

光秀は山崎の合戦で敗れた後、伏見で落ち武者狩りに遭い竹槍で刺されて絶命するのが通説とされる。最終回に臨んで、本能寺の変後はあの如何にも腹黒くふてぶてしい秀吉に敗れて望みもへったくれも無い形で終わるのだろうかと内心危惧していたのだが、結果はご覧の通り直接的に山崎の合戦辺りが描写される事も無く巧い具合にナレーションで済まされる(しかもご丁寧に「敗死した」ではなく「敗れた」とだけしか言及していない)のみとなっている。
確かに、終わって見て改めてこの辺りの光秀を調べてみると敗死説こそ濃厚であるものの他方で生存説も古くから存在する。いずれも決定的な論拠には今一つ乏しいが、少なくとも共通事項として「“明智光秀”という人物が歴史の表舞台から消えた」という点には変わり無い。本編では恐らく何者でもなくなったであろう十兵衛と思しき人物が馬で野を駆けつつ幕を閉じているが、もし彼が再び歴史の表舞台に現れるとするならば果たしてどのような姿となるであろうか。

他方では秀吉の関白宣下の時期で豊かになった市井を映している。秀吉はこの年の11月に惣無事令を発令して大名間の戦を禁じるが、それでも天下統一までに小田原征伐や奥州仕置等を行っており、また統一後も朝鮮出兵を進める等、彼の治世下においても大規模な戦役は依然として消えなかった。(もっとも、彼の政権の次を担う徳川家康も関ヶ原や大坂の陣に見られる通り、晩年に至るまで戦と無縁ではいられなかったが…)
顧みると十兵衛の物言いには古代中国で仁義を説いた孟子のそれを思い起こさせるものが時折見え隠れする様に思われるが、彼を仁義の人と定義するならば、即物的価値観の持ち主で王道よりも覇道をもって成り上がろうとした信長や秀吉はこれと異にする様に見える。信長に関する顛末は周知の通りだが、その後に続く秀吉が麒麟を連れて来る者とするのはにわかに考え難い(ただし、彼の事業の一つとして行われた検地は十兵衛も統治上重要な事項として言及している点には留意しておきたい)。
彼の築いた豊臣政権は没後に起こった大坂の陣をもって崩壊する事となる。市井は比較的豊かになったが、本編中に麒麟がきた様な世の中になったかどうかはまだ一考の余地が有る様に思われる。

サブタイトル

本編開始から程無くしてサブタイトルが『ウルトラセブン』のそれとの類似性を指摘された本作だが、終わって見れば如何だろうか。
以下に列挙してみたく思う。(※太字がウルトラセブンのサブタイトル)

  1. 光秀、西へ
    →ウルトラ警備隊西へ
    /地底超特急西へ(ウルトラQ)
  2. 道三の罠
    →異次元の罠(ウルトラマンコスモス)?
  3. 美濃の国
    →かっぱの里(ウルトラマンコスモス)?
  4. 尾張潜入指令
    →アンドロイド0指令
  5. 伊平次を探せ
    →明日を捜せ
  6. 三好長慶襲撃計画
    →セブン暗殺計画
  7. 帰蝶の願い
    →エースの願い(ウルトラマンメビウス)?
  8. 同盟のゆくえ
    →虹の行く先(ウルトラマンX)?
  9. 信長の失敗
    →該当なし
  10. ひとりぼっちの若君
    →ひとりぼっちの地球人
  11. 将軍の涙
    →ガンQの涙(ウルトラマンギンガS)?
  12. 十兵衛の嫁
    →星の恋人(ウルトラマンコスモス)?/龍の恋人(ウルトラマンマックス)?
  13. 帰蝶のはかりごと
    →デスレムのたくらみ(ウルトラマンメビウス)?
  14. 聖徳寺の会見
    →該当なし
  15. 道三、わが父に非(あら)ず
    →該当なし
  16. 大きな国
    →該当なし
  17. 長良川の対決
    →零下140度の対決
  18. 越前へ
    →明日へ…(ウルトラマンダイナ)?
  19. 信長を暗殺せよ
    →郷秀樹を暗殺せよ!(帰ってきたウルトラマン)?
  20. 家康への文
    →未来への聖剣(ウルトラマンギンガS)/勝利への(ウルトラマンX)?
  21. 決戦! 桶狭間
    →決戦! 地中都市(ウルトラマンダイナ)?
  22. 京よりの使者
    →ノンマルトの使者
  23. 義輝、夏の終わりに
    →タンゴ・冬の終わりに?
  24. 将軍の器
    →呪いの壺(怪奇大作戦)?
  25. 羽運ぶ蟻
    →散歩する惑星?
  26. 三淵の奸計
    →該当なし
  27. 宗久の約束
    →該当なし
  28. 新しき幕府
    →美しきチャレンジャー(ウルトラマン80)?
  29. 摂津晴門の計略
    →史上最大の侵略
  30. 朝倉義景を討て
    →侵略者を撃て(ウルトラマン)?/悪魔を討て!(ウルトラマンタイガ)?
  31. 逃げよ、信長
    →育てよ!カメ(ウルトラQ)?
  32. 反撃の二百挺
    →復讐の引き金(ウルトラマンオーブ)?/反逆のベリアル(ウルトラマンゼロ)?
  33. 比叡山に棲む魔物
    →悪魔の住む花
  34. 焼討ちの代償
    →該当なし
  35. 義昭、まよいの中で
    →運命の光の中で(ウルトラマンダイナ)?
  36. 決別
    →別離(ウルトラマンネクサス)?
  37. 信長と蘭奢待
    →栄光と伝説(平成ウルトラセブン)?
  38. 丹波攻略命令
    →沿岸警備命令/宇宙船救助命令(ウルトラマン)/はぐれ星爆破命令(ウルトラマン80)?
  39. 本願寺を叩け
    →地震源Xを倒せ?
  40. 松永久秀の平蜘蛛
    →カネゴンの繭(ウルトラQ)/バラージの青い石(ウルトラマン)?
  41. 月にのぼる者
    →地球に降りてきた男(ウルトラマンティガ)?
  42. 離れゆく心
    →逃げない心(ウルトラマンオーブ)?
  43. 闇に光る樹
    →闇に光る目
  44. 本能寺の変
    →該当なし

…と、この通り確認した限りでも全44話中で該当したのはたったの10~12話程度。
どうも噂程には採り上げられていなかった様である。
一応対象を他のウルトラシリーズや特撮作品にまで広げれば幾らか該当しそうなものがヒットしたが、それでも全話をカバーするには至らず中には整合性としていかがなものだろうかというものも散見する。
ちなみに今更ながら、今回の関連性を調べる過程で『ウルトラマンティガ』の中に「霧が来る」というサブタイトルを発見した。メインタイトルの元ネタはもしや…いやしかし…いやいやもしかすると…

この頃の情勢

第27話にて足利義昭が越前を出奔した1568年8月から第44話終盤にて秀吉が関白宣下を受ける年までの期間に、世の中で何が起きていたのかを列挙してみたい。
尚、本編で扱われた出来事は太字にて表記する。

1568年

  • 9月:フランスでサン・モールの勅令。ユグノー戦争再燃へ(第三次戦争。~1570年8月8日)。
  • 9月16日?:第一次露土戦争勃発。(~1570年)
  • 9月22日:木津城から三好政康が大和侵攻開始。これに呼応して筒井軍が多聞山城攻撃。
  • 10月2日:観音寺城(箕作城)の戦い。
    支城の箕作城(と和田山城)陥落により六角承禎が居城・観音寺城を放棄、甲賀へ逃亡。
  • 10月3日:足利義栄没。(遅くとも11月11日と諸説有り)
  • 10月16日:織田信長上洛開始。日本史の時代区分は中世から近世へ。
  • 〃:勝竜寺城の戦い(~10月19日)。落城は18日。
  • 10月18日:足利義昭・織田信長・細川藤孝入京。
  • 10月20日:芥川山城落城。城主の三好長逸は阿波へ逃亡。
  • 10月22日:松永久秀、織田信長に茶器「九十九茄子」進呈。
  • 10月26日:第八次筒井城の戦い。(~10月28日落城。城主・筒井順慶は逃走)
  • 11月7日:足利義昭が朝廷より征夷大将軍宣下。従四位下昇叙、参議・左近衛権中将に任官。
  • 11月17日:織田信長が従五位下・弾正少忠に任官。
  • 12月:第三次泰緬戦争。
    当時ビルマの属国下にあったアユタヤ(タイ)で同年5月に挙兵したチャクラパット(スパンナフム朝第12代アユタヤ王)に対し
    バインナウン(タウングー朝第3代ビルマ王)がアユタヤを包囲、兵糧攻めを開始。
  • 12月21日:黒田長政誕生。
  • 12月24日:武田信玄が駿河侵攻開始。甲相駿三国同盟破綻。
  • 12月30日:【駿河侵攻】第一次薩埵峠の戦い。(~12月31日)
  • 12月31日:今川家臣の離反と今川氏真の戦線離脱により薩埵峠の今川勢が総崩れ。
    更に武田勢により駿府が陥落し、氏真は掛川城へ逃亡。
  • 日付不明:ジョコ・ティンキールがジャワ島中部にパジャン王国建国。

1569年

  • 1月3日:近衛前久が関白職を解任される。
  • 1月13日:二条晴良が関白職に復職。
  • 1月14日:徳川家康が今川氏真の籠る掛川城を包囲。(~6月1日)
  • 1月30日:織田信長が足利義昭に殿中御掟9ヶ条を突き付け承認させる。
    (掟は2月2日、1570年2月27日にも追加され、史実ではこの辺りから次第に信長・義昭間の関係が悪化し始める。)
  • 1月31日:本圀寺の変。
  • 2月3日:薩埵峠で武田と北条が対峙。(第二次薩埵峠の戦い。~5月6日)
  • 3月:アクバル1世(大帝。ムガル帝国第3代皇帝)が、
    ムガル帝国との同盟を拒否したブーンディー王国のランタンボール城を包囲。
    後に講和し同城は陥落、ムガル帝国と同盟関係にあったアンベール王国に引き渡される。
  • 4月:二条城(旧二条城)完成。
    また、この頃より織田・毛利間で通交が始まる。
  • 4月15日:【第三次泰緬戦争】ビルマによるアユタヤ包囲下の中でチャクラパット崩御。
    王位は次男のマヒンタラーティラート(スパンナフム朝末代アユタヤ王)が継承。
  • 5月3日:遠江で小野正次刑死。
  • 5月28日:三好宗渭(三好三人衆の一人)没。
  • 6月:アイルランドで第一次デズモンドの反乱。(~1573年2月23日)
  • 6月1日:北条氏の仲介により掛川城開城。徳川家康と今川氏真が和睦。(実質的に大名としての今川氏滅亡)
  • 7月:土佐で八流の戦い。長宗我部元親東土佐平定。
  • 7月1日:ルブリン合同。ロシアとの交戦(リヴォニア戦争。1558年~1583年)に際し、
    ポーランド王国とリトアニア大公国がポーランド・リトアニア共和国に統合(実質ポーランドのリトアニア併合)。
  • 7月22日:上杉輝虎と北条氏政が越相同盟締結。
  • 8月2日:【第三次泰緬戦争】アユタヤが包囲戦の末に陥落。
    マヒンタラーティラートは廃位(後に病死ないし暗殺)され、スパンナフム朝アユタヤ王国滅亡。第三次泰緬戦争収束。
  • 8月31日:ジャハーンギール(ムガル帝国第4代皇帝)誕生。
  • 9月29日:スコータイ王家の末裔とされるマハータンマラーチャーティラート(サンペット1世)が
    バインナウンの傀儡政権としてアユタヤ王に即位(スコータイ朝アユタヤ王国成立)。
    また、子のナレースワン(大王。後のスコータイ朝第2代アユタヤ王)も同年に人質から解放しビルマより帰国させる。
  • 11月:イングランドで北部諸侯の乱。(~1570年1月鎮圧)
  • 11月9日:武田勢が小田原城を包囲。(~11月13日撤兵)
  • 11月14日:撤兵中の武田勢と北条勢が三増峠で交戦。(三増峠の戦い。16日説有)
  • 日付不明:浅井茶々(淀殿)誕生。
  • 日付不明:アクバル1世が新都ファテープル・シークリーの建設開始。
  • 日付不明:マクシミリアン2世がウィーンのカッターブルク城一帯を購入。(現・シェーンブルン宮殿の前身)

1570年

  • 1月9日:イヴァン4世(雷帝。リューリク朝第11代モスクワ大公、ロシア・ツァーリ国初代ツァーリ)がノヴゴロド虐殺を開始。(~2月)
  • 1月11日:マリ伯爵ジェームズ・ステュアート(スコットランド王ジェームズ6世摂政)暗殺。
    摂政の後任はレノックス伯マシュー・ステュアートが継承。
  • 2月25日:ローマ教皇ピウス5世がイングランド女王エリザベス1世に対し破門宣告。
    (現行、教皇勅書により王位が否認された最後の事例。)
  • 3月3日:武田信玄が花沢城を攻略。駿河を武田の勢力下に置く。(駿河侵攻完了)
  • 4月19日:織田信長が正四位下・弾正大弼に任官。
  • 5月24日:【金ヶ崎の戦い】織田信長、京より出陣。
  • 5月27日:元号が「元亀」に改元。
  • 5月30日:【金ヶ崎の戦い】金ヶ崎城開城。
  • 5月30日?:信長、浅井長政の造反の報を受け金ヶ崎より撤退開始。(第一次信長包囲網)
  • 7月:荒木村重が三好長逸に通じて池田勝正を追放。三好方へ加担。
  • 〃:オスマン帝国のヴェネツィア共和国領キプロス遠征。同島の包囲戦開始。
  • 7月6日:野洲河原の戦い。
  • 7月13日:島津豊久誕生。
  • 7月30日:姉川の戦い。
  • 8月8日:フランスでサンジェルマンの和議締結。ユグノー戦争(第三次戦争)終結。
  • 8月21日:三好長逸・岩成友通等が摂津に再上陸。
  • 9月25日:野田城・福島城の戦い。(~10月22日。ただし実際の交戦は10月7日)
  • 10月2日:コスメ・デ・トーレス(イエズス会宣教師)没。
  • 10月11日:石山本願寺勢が福島城の戦いに参戦。(石山合戦。~1580年)。
    またこれに呼応して伊勢長島でも一向一揆発生。(長島一向一揆。~1574年10月13日)
  • 10月15日:南下した浅井・朝倉勢が宇佐山で織田勢と交戦(宇佐山城の戦い)。志賀の陣開始。(~1571年1月)
  • 10月22日:織田信長、柴田勝家の進言により浅井・朝倉勢の向かう京へ撤退(野田城・福島城の戦い収束)。
    これを受け浅井・朝倉勢も比叡山へ後退。
  • 10月23日:【志賀の陣】織田信長、浅井・朝倉勢の籠城する比叡山を包囲。
    また、戦況の膠着化に乗じて六角承禎も参戦して信長と対立。
  • 11月27日:【石山合戦】織田信長と石山本願寺顕如が和睦。
  • 11月某日:織田信長と六角承禎が和睦。(実質的には承禎の降伏。大名としての六角氏滅亡か)
  • 12月:上杉輝虎、「不識庵謙信」と号す。
  • 12月13日:スウェーデン・デンマーク(及びリューベック)間でシュテッティンの和約締結。北方七年戦争(1563年~)終結。
    以後スウェーデンは一時離脱していた、ロシアとのリヴォニア戦争に復帰。
  • 12月18日:【長島一向一揆】小木江城落城。城主織田信興自害。
  • 日付不明:斎藤利三が稲葉良通から明智光秀に転仕。
  • 日付不明:浅井初(常高院)誕生。
  • 日付不明:アクバル1世がインド中部のマールワー地方を獲得。
  • 日付不明:ハサヌディン(バンテン王国第2代スルタン)没。王位は子のパヌンバハン・ユスフが継承。

1571年

  • 1月9日:朝廷と幕府の仲介により織田と浅井・朝倉・三好三人衆間で講和成立。志賀の陣終結。(第一次信長包囲網収束)
    この折、松永久秀も三好長逸・岩成友通側と和睦。筒井順慶とは引き続き対立。
  • 1月27日:アッバース1世(大王。サファヴィー朝ペルシア第5代シャー)誕生。
  • 3月:アルタン・ハン(北元の実質的支配者)が明朝と和議締結(隆慶封貢/隆慶和議)。
  • 3月6日:塚原卜伝没。
  • 5月:リトアニアと同盟を結んだクリミア・ハン国がロシアに侵入。(ロシア・クリミア戦争。~1572年)
  • 5月24日:【ロシア・クリミア戦争】モスクワ大火。
  • 6月:足利義昭養女が筒井順慶のもとに嫁ぐ。
    これにより松永久秀が義昭に対し造反。三好長逸・岩成友通等と合流(三好勢力の再結集)。
  • 6月24日:フィリピンでマニラ建設。(現・フィリピン首都。自治体発足は1574年6月10日)
  • 7月6日:毛利元就没。
  • 7月15日:島津貴久没。
  • 8月:オスマン帝国キプロス包囲戦の末、同地の主要都市ファマグスタ陥落。オスマン帝国のキプロス征圧完了。
  • 9月4日:レノックス伯爵マシュー・ステュアート(スコットランド王ジェームズ6世摂政)がスターリング城防戦中に戦死。
    摂政の後任はマー伯ジョン・アースキンが継承。(ただし実権は後に摂政となるモートン伯ジェームズ・ダグラスが掌握)
  • 9月17日:白井河原の戦い。摂津守護・和田惟政敗死。
    また、荒木村重がこの戦での活躍により織田家家臣となる。
  • 9月28日:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(画家)誕生。
  • 9月30日:比叡山焼き討ち。
  • 10月7日:レパントの海戦。大規模な戦役で西欧諸侯連合が初めてオスマン帝国に勝利。
  • 10月21日:北条氏康没。
  • 11月12日:筒井順慶が明智光秀の斡旋により信長に臣従。
  • 11月17日:伊勢貞興が幕府政所執事となる。(=この間に摂津晴門失脚か)
  • 12月27日:ヨハネス・ケプラー(天文学者)誕生。
  • 12月31日:和仁親王(後の第107代天皇・後陽成天皇)誕生。
  • 日付不明(比叡山焼討移行):坂本城築城開始。
  • 日付不明:柳生宗矩誕生。
  • 日付不明:セバスティアン1世(待望王/騎士王。アヴィス朝第7代ポルトガル王)が日本人奴隷の交易中止令を発令。
  • 日付不明:アクバルがムガル帝国の帝都をアーグラからファテープル・シークリーに遷都。

1572年

  • 1月12日:北条氏政が相越同盟を解消し、武田信玄との甲相同盟回復。
  • 2月19日:三条西実澄が権大納言を辞任。
  • 5月1日:第225代ローマ教皇ピウス5世没。
  • 5月12日:尚元王(第二尚氏王統琉球国第5代王)崩御。
  • 5月14日:第226代ローマ教皇グレゴリウス13世就任。
  • 6月9日:ナバラ王国女王ジャンヌ3世没。王位は子のアンリが継承(アンリ3世。後のブルボン朝初代フランス王アンリ4世)。
  • 7月:オラニエ公ウィレム1世がホラント・ゼーラント両州の統領となる。
  • 〃:アクバル1世がグジャラート王国に侵入。
  • 7月5日:穆宗・隆慶帝(明朝第13代皇帝)崩御。
  • 7月7日:ポーランド王・リトアニア大公ジグムント2世アウグスト崩御。ヤギェウォ朝ポーランド王家断絶。
  • 7月19日:神宗・万暦帝(明朝第14代皇帝)即位。
  • 7月29日:【ロシア・クリミア戦争】モロディの戦い(~8月2日)。
    ロシアがクリミア・ハン勢を撃退し、ロシア・クリミア戦争収束。
  • 8月4日:フランスでサン・バルテルミの虐殺。コリニー提督以下ユグノーの貴族が多数殺害される。
    ナバラ王アンリ3世もフランス宮廷内に幽閉(カトリック改宗を強要される)。ユグノー戦争再開。(第四次戦争。~1573年7月)
  • 9月:木下秀吉、羽柴姓へと改姓。
  • 9月24日:インカ帝国皇帝(名目上)トゥパク・アマル刑死。インカ帝国男系皇統断絶。
  • 9月30日:イエズス会第3代総長フランシスコ・ボルハ没。
  • 10月:織田信長が足利義昭に17条の意見書を送付。両者の確執激化。
  • 10月28日:マー伯爵ジョン・アースキン(スコットランド王ジェームズ6世摂政)没。
    摂政の後任はモートン伯爵ジェームズ・ダグラスが継承。(~1578年解任)
  • 11月:アクバル1世の侵攻によりグジャラート王国王都アフマダーバード陥落。
    グジャラート王国は滅亡し、ムガル帝国に併合される。
  • 11月4日:山県昌景・秋山虎繁が三河に侵攻。(武田の西上作戦開始)
  • 11月8日:【西上作戦】武田信玄が上洛の為甲府より出陣。第二次信長包囲網展開。
  • 11月18日:【西上作戦】一言坂の戦い。
  • 11月21日:【西上作戦】二俣城の戦い。(~1573年1月22日)
  • 12月:武田の西上作戦の際して織田信長が上杉謙信と同盟締結。
  • 12月18日:【西上作戦】岩村城落城。武田の勢力下に降る。
  • 日付不明:宇喜多秀家、出雲阿国誕生。

1573年

  • 1月22日:【西上作戦】二俣城落城。遠江の大半が武田の勢力下に降る。
  • 1月25日:三方ヶ原の合戦。
  • 2月:アクバル1世がグジャラート地方のスーラトを制圧。
    (同地の獲得により後世のムガル帝国は海洋貿易を通して発展する。)
  • 3月16日:足利義昭挙兵。
    またこの頃に松永久秀・三好義継も義昭と和睦して信長包囲網に加担か。
  • 3月19日:【西上作戦】三河野田城落城。武田の侵攻限界点へ。
  • 4月23日:イエズス会第4代総長エヴェラール・メルキュリアン就任。
  • 5月5日:織田信長による二条城包囲および上京放火。
  • 〃:【石山合戦】顕如が織田信長に対し再度挙兵。
  • 5月8日:正親町天皇の勅命により織田信長と足利義昭が和睦。
  • 5月13日:武田信玄没。西上作戦頓挫。
    武田家家督は子・諏訪勝頼が復姓して相続し(武田勝頼)、織田信長への対抗を継続。
  • 7月:ブローニュ勅令発布。ユグノー戦争(第四次戦争)終結。
  • 7月31日:足利義昭再度挙兵。義昭は槇島城、三淵藤英は二条城にて籠城。
  • 8月:浅井江(崇源院)誕生。
  • 8月7日:二条城開城。三淵藤英が柴田勝家の交渉に応じ降伏。
  • 8月15日:槇島城炎上。足利義昭降伏。京追放へ。(実質的な室町幕府滅亡)
  • 8月19日:足利義昭、三好義継のいる若江城に動座。これにより織田信長と三好義継の関係悪化。
  • 8月25日:元号が「天正」に改元。
  • 8月29日:淀古城の戦い。岩成友通(三好三人衆の一人)討死。
  • 9月:丹羽長秀が織田信長より若狭一国を与えられ、織田家中最初の国持ち大名となる。
  • 9月4日:小谷城の戦い(~9月23日)。
  • 9月9日:刀根坂の戦い(~9月10日)。山崎吉家、斎藤龍興討死。
  • 9月13日:一乗谷の戦い(~9月16日)。
  • 9月16日:朝倉義景自害。越前朝倉家滅亡。
  • 9月23日:浅井久政自害。
  • 9月26日:浅井長政自害。浅井家滅亡。
  • 11月29日:足利義昭、若江城から堺へ動座。
  • 12月4日:若江城の戦い。(~12月10日)
  • 12月10日:若江城落城。三好義継自刃。三好宗家滅亡(血統は存続か?)。第二次信長包囲網瓦解。
  • 日付不明:尚永王(第二尚氏王統琉球国第6代王)即位。
  • 日付不明:アルバ公フェルナンドがスペイン領ネーデルラント総督職離職、ルイス・デ・レケセンスへと交代。
  • 日付不明:ムガル帝国帝都アーグラにてアクバルの居城・アーグラ城塞が完成。
  • 日付不明:アブドゥッラーフ2世(シャイバーニー朝ブハラ・ハン国第10代ハン)がバルフとフェルガナを征服。

1574年

  • 1月18日:松永久秀降伏。多聞山城(と堀城)を織田信長に明け渡す。
  • 1月25日:覚恕法親王遷化。
  • 2月20日:越前で越前一向一揆発生。(~1575年10月5日)
  • 3月25日:三条西実澄が権大納言に還任。
  • 4月9日:織田信長が従三位・参議に任官。公卿となる。
  • 4月19日:織田信長が多聞山城にて蘭奢待を切り取る。
  • 5月:第一次高天神城の戦い。(~7月6日)
  • 5月2日:第一次高屋城の戦い。(~5月18日)
  • 5月4日:朝倉景鏡が越前一揆と交戦して討死。
  • 5月30日:シャルル9世(フランス王)没。王位は弟のアンジュー公爵アンリが継承。(ヴァロワ朝末代・アンリ3世)
  • 6月:細川藤孝が勝竜寺城天守にて三条西実澄より古今伝授を受け、一時的に二条派正統を継承。
  • 7月23日:三淵藤英自刃。
  • 9月:イヴァン4世がモスクワ大公の位から一時退位。(1576年年明けに復位)
  • 10月13日:長島一向一揆鎮圧。尚、この折一揆側の最後の攻勢により織田信広討死。
  • 10月某日:【石山合戦】長島一向一揆鎮圧を受け、顕如が織田信長へ和睦申入れ。和睦は信長有利の条件で成立。
  • 11月:南仏の地方総督モンモランシー・ダンヴルがユグノー側と結託してフランス王家に反目。
    ユグノー戦争再開。(第五次戦争。~1576年5月6日)
  • 11月28日:荒木村重の攻城により足利方の伊丹城落城。城主にして摂津守護・伊丹親興自害(生存説有)。
    伊丹城は有岡城と改称、村重は同城城主となり摂津一国を任される。
  • 12月12日:セリム2世崩御。
  • 12月15日:セリム2世の子・ムラト3世がオスマン帝国第12代スルタンに即位。
  • 日付不明:足利義昭、紀伊へ動座。

1575年

  • 2月4日:三条西実澄が諱を「実枝」と改める。(尚、本作では一貫して「実澄」名義)
  • 2月20日:パウロ・ディアス・デ・ノヴァイス(ポルトガル貴族。欧州人初の「喜望峰」到達者バルトロメウ・ディアスの孫)が
    アフリカのアンゴラに到達。ポルトガル領アンゴラの建設開始。
  • 5月17日:【石山合戦】第二次高屋城の戦い。(~5月28日)
  • 5月28日:三好康長降伏。第二次高屋城の戦い終結。
  • 5月30日:織田信長が武田勝頼の征西に供え河内より帰京。
    この折、島津家久が京で帰京した織田軍(と馬上で居眠りする信長)を見かける。
  • 6月22日:島津家久、坂本で明智光秀の接待を受ける。
  • 6月29日:長篠の合戦。
  • 8月8日:織田信長が誠仁親王の蹴鞠の会に招かれる。
    本旨は正親町天皇による信長の官位昇進の勅諚だが信長は固辞。代わりに家臣の官位受領を願い出て受領される。
    これにより明智光秀が従五位下・日向守に任官、惟任姓賜姓。
    この他、羽柴秀吉が筑前守に任官。丹羽長秀が惟住姓賜姓。塙直政が備中守任官、原田姓賜姓(原田直政)。
  • 8月:四万十川の戦い。長宗我部元親が一条兼定を撃破し土佐を統一。
  • 8月4日:近衛前久が織田信長の奏上により帰洛。
  • 10月5日:越前一向一揆鎮圧。
  • 11月3日:織田信長が丹波国衆へ朱印状を出す。波多野秀治等が傘下に入る。
  • 11月初旬:第一次黒井城の戦い(~1576年2月14日)
  • 12月6日:織田信長が権大納言に任官。
  • 12月9日:織田信長が右近衛大将に任官、権大納言兼任。
  • 〃:織田信忠が秋田城介に任官。
  • 12月23日:織田信忠が武田方に落ちていた岩村城を奪還。
  • 12月30日:織田信長が織田家の家督・領国を信忠に譲る。
  • 日付不明:李氏朝鮮にて政策や官職の任官権を巡り政権内の官僚(士林派)が東人と西人に分裂、
    党派間闘争が始まる。(ただし時の大司憲(監察長官)・李珥の仲裁によりある程度抑制)

1576年

  • 1月25日:パウロ・ディアス・デ・ノヴァイスによりポルトガル領アンゴラにルアンダ(現・アンゴラ首都)建設。
  • 2月頃:丹羽長秀が安土城築城に臨んで普請総奉行に据えられる。
  • 2月3日:幽閉中だったナバラ王アンリ3世がフランス宮廷からの脱出に成功。
  • 4月:安土城築城開始。(1579年5月までには完成か)
  • 2月14日:波多野秀治が造反。これを受け明智光秀が黒井城攻城戦より撤退。
  • 3月:足利義昭、鞆へ動座。
  • 4月:【石山合戦】顕如が織田信長に対し三度挙兵。
  • 5月6日:ボーリューの勅令発布。ユグノー戦争(第五次戦争)収束。
  • 5月14日:タフマースブ1世(サファヴィー朝ペルシア第2代シャー)崩御。
    以後サファヴィー朝ペルシアは第5代アッバース1世の代になるまで内乱期に移行する。
  • 5月30日:【石山合戦】天王寺砦の戦い。(~6月3日)
    織田方主力の原田直政が討死。包囲された天王寺砦守備役の明智光秀が織田信長へ援軍要請。
  • 6月3日:【石山合戦・天王寺砦の戦い】要請を受けた織田信長が本願寺勢へ突撃。
    天王寺砦勢と合流して本願寺勢を撃破。(この折、足に被弾する)
    以後石山本願寺は籠城戦へ移行し、織田方の本願寺攻めの指揮は佐久間信盛が継承。松永久秀も与力として残留。
  • 〃:毛利輝元が織田信長との同盟を破棄。
  • 6月6日:筒井順慶が織田信長より大和一国の支配を任される。
  • 6月某日:上杉謙信と顕如が和睦。(織田信長との同盟破棄)
    毛利・上杉・本願寺の三者同盟成立。第三次信長包囲網展開。
  • 6月13日:ナバラ王アンリ3世がプロテスタントに再改宗。ユグノー戦争におけるユグノー側の盟主となる。
  • 6月19日:明智光秀が倒れる。(ただし原因は過労)
  • 7月:多聞山城破却工事開始。(~1577年6月頃破却完了)
  • 〃:アクバル1世がインド東方のベンガル王国を併合。
  • 8月7日:第一次木津川口の戦い。織田水軍壊滅。
  • 8月22日:サファヴィー朝ペルシアでイスマーイール2世(先代タフマースブ1世の次男)が第3代シャーとして即位。
  • 8月27日:ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(画家)没。
  • 10月12日:マクシミリアン2世(ハプスブルク朝神聖ローマ帝国第6代皇帝)崩御。皇位は次男のルドルフ2世が継承。
  • 11月:上杉謙信が上洛への布石として能登の七尾城攻城開始。(七尾城の戦い。~1577年10月26日)
  • 〃:フランスでカトリック派貴族のギーズ公爵アンリを盟主にカトリック同盟結成。
  • 11月24日:織田信忠が従三位・左近衛権中将に任官。
  • 11月27日:明智熙子没。(7月6日説有)
  • 12月:フランスのポワトゥーとギュイエンヌでユグノーが武装蜂起。ユグノー戦争再開。(第六次戦争。~1577年9月14日)
  • 12月3日:織田信長が正三位に昇叙。
  • 12月11日:織田信長が内大臣に任官。右近衛大将兼任。
  • 日付不明:アブドゥッラーフ2世がタシュケントを領有。
  • 日付不明:この頃よりイタリアのミラノ・ヴェネツィア等でペストが大流行する。(~1977年ないし78年頃収束)

1577年

  • 9月:織田信長が京の妙覚寺に隣接する二条邸を譲り受けて二条御新造へと改修する。
  • 9月14日:フランスでベルジュラック協定締結。ユグノー戦争(第六次戦争)終結。
  • 9月28日:石山本願寺攻めにて詰めていた松永久秀が造反。信貴山城に立て籠る。
  • 10月26日:七尾城の戦い終結。上杉謙信が能登を勢力下に置く。
  • 11月3日:手取川の戦い。撤退中の柴田勝家等が上杉謙信の迫撃を受け大敗。
  • 11月14日:信貴山城の戦い。(~11月19日)
  • 11月19日:松永久秀自害。
  • 11月24日:サファヴィー朝ペルシアでイスマーイール2世崩御。
    王位は兄のムハンマド・ホダーバンデ(弱視のため当初王位継承者から外れていた)が第4代シャーとして継承。
  • 12月13日:フランシス・ドレークがイングランドのプリマスから世界一周の航海へ出航。
  • 12月25日:織田信長が従二位に昇叙。
  • 12月29日:織田信長が右大臣に任官。右近衛大将兼任。
  • 〃:三条西実澄(実枝)が織田信長の推挙により大納言へ遷任。
  • 12月31日:織田信長が二条御新造を誠仁親王へ献上。二条新御所となり誠仁親王・和仁王が移る。

1578年

  • 2月12日:織田信長が正二位に昇叙。
  • 3月:別所長治が織田勢より離反。
  • 4月:八上城の戦い。(第七次。~6月24日)
  • 4月14日:フェリペ3世(敬虔王。アブスブルゴ朝第3代スペイン王/第2代ポルトガル王(フィリペ2世))誕生。
  • 4月19日:上杉謙信没。
  • 4月20日:上杉家臣・柿崎晴家謀殺。(御館の乱。~1580年8月2日)
  • 5月5日:三木合戦。(~1580年2月2日)
  • 5月10日:二条晴良が関白職を辞職。
  • 5月15日:織田信長が右大臣・右近衛大将職を辞職。
  • 5月24日:播磨で上月城の戦い。(~8月6日)
  • 6月25日:里見義弘没。
  • 7月:荒木村重謀反。(有岡城の戦い。~1579年11月19日)
  • 8月4日:アルカセル・キビールの戦い。同会戦でセバスティアン1世行方不明(戦死か?)。
    王位は大叔父の摂政エンリケ枢機卿が継承(アヴィス朝末代ポルトガル王エンリケ1世(枢機卿王/純潔王))。
  • 8月6日:【上月城の戦い】尼子勝久自害。尼子氏滅亡。
  • 8月:オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシア間でオスマン・サファヴィー戦争(第二次)開始。(~1590年)
  • 8月20日:山中鹿介(幸盛)謀殺。
  • 9月:細川忠興・明智たま結婚。
  • 9月:武田勝頼が(御館の乱の最中の)上杉景勝と甲越同盟締結。
    景勝と対峙する景虎は北条氏康の子である為、甲相同盟破綻。
  • 10月:黒田官兵衛が荒木村重説得の為、有岡城入城。説得は失敗し同地に幽閉。
  • 11月3日:月岡野の戦い。
  • 12月4日:第二次木津川口の戦い。
    織田(九鬼)水軍が毛利水軍を撃破し大阪湾の制海権獲得。毛利による石山本願寺への兵糧の補給路が断たれる。
  • 日付不明:丹波亀山城築城。堀尾忠氏誕生。
  • 日付不明:ルドルフ2世の弟マティアス(後のハプスブルク朝神聖ローマ帝国第8代皇帝)が
    ネーデルラント17州に統治者として招聘される。(~1581年)
  • 日付不明:明朝の医師・李時珍により『本草綱目』が完成。(刊行は1596年)

1579年

  • 1月6日:親スペイン側のネーデルラント南部2州と3都市がアラス同盟を結成。
  • 1月23日:オランダのユトレヒトにてネーデルラント北部7州が対スペイン軍事同盟を結成。(ユトレヒト同盟)
  • 2月15日:三条西実澄(実枝)が内大臣に転任。(2月17日辞職、出家)
  • 2月19日:三条西実澄(実枝)没。
  • 3月28日:山科言継没。
  • 4月13日:【御館の乱】上杉憲政落命。
  • 4月19日:【御館の乱】上杉景虎自害。上杉景勝家督相続。
  • 5月:織田信長、安土城天守に移住。
  • 5月2日:徳川秀忠誕生。
  • 5月24日:二条晴良没。
  • 6月24日:八上城主・波多野秀治が調略により捕縛。八上城落城。
  • 7月1日:波多野秀治刑死。
  • 7月6日:竹中半兵衛、三木合戦の最中に陣没。
  • 7月18日:アイルランドで第二次デズモンドの反乱。(~1583年11月11日)
  • 7月下旬頃:第二次黒井城の戦い。(~8月30日)
  • 8月:アランソン公フランソワが来英しエリザベス1世へ求婚。(縁談は公の死去により破談)
  • 8月30日:黒井城落城。明智光秀丹波平定。
  • 9月:スコットランドのエディンバラ城でジェームズ6世の成人の式典挙行。
    ジェームズ6世が本拠をスターリング城から同城に移し、親政を開始。
  • 9月10日:明智光秀、丹波横山城(現・福知山城)攻略開始。程無く平定。
  • 9月19日:築山殿落命。
  • 10月5日:松平信康自刃。(信康事件)
  • 10月11日:トルコで大宰相・ソコルル・メフメト・パシャ暗殺。
  • 11月19日:有岡城開城。
  • 10月21日:種子島時尭没。
  • 11月:フランスでユグノー側のコンデ公爵アンリがラ・フェール襲撃。ユグノー戦争再開(第七次戦争。~1580年11月)。
  • 11月25日:毛利秀元誕生。
  • 日付不明:斎藤福(春日局)誕生。
  • 日付不明:バンデン王パヌンバハン・ユスフがスンダ王国王都パクアン・パジャジャラン(現・ボゴール)奪取。
    スンダ王プラブ・セダー戦死。これにより西部ジャワ最後のヒンドゥー国・スンダ(パジャジャラン)王国滅亡。

1580年

  • 1月2日:荒木だし刑死。
  • 1月31日:エンリケ1世崩御。後継は定まらずスペイン王フェリペ2世がポルトガル王位を請求。
  • 2月2日:別所長治自害。三木合戦終結。
  • 4月20日:石山本願寺が織田信長へ大坂退去の誓紙を提出。休戦状態へ。(実質的な石山合戦終結)
  • 5月22日:顕如が石山本願寺から紀伊鷺森御坊へ退去。本願寺は嫡子の教如が引き続き残留。
  • 7月24日:エンリケ1世の甥アントニオが民衆から推戴されポルトガル王即位を宣言(アントニオ1世)。
  • 7月28日:蘆名盛氏没。
  • 8月2日:上杉家臣・神余親綱誅殺。御館の乱終息。
  • 8月25日:アルカンタラの戦い。
    アントニオ1世率いるポルトガル軍がアルバ公フェルナンド率いるスペイン軍に敗退。アントニオ1世はフランスへ亡命。
  • 9月10日:近衛前久の説得により教如が石山本願寺から雑賀へ退去。石山合戦終結。
    本願寺は教如退去後出火して13日に焼失。(教如による放火か)
  • 9月26日:フランシス・ドレークが世界一周を完了(1522年のマゼラン艦隊に続き2例目)してプリマスへ帰港。
    この功績によりナイト爵に叙勲されイギリス海軍中将に任命される。
  • 9月27日:北条氏政が在陣中に家督を子・氏直に委譲。(ただし外交・軍事面では引き続き担当)
  • 10月3日:佐久間信盛追放。
  • 10月10日:バインナウン崩御。
  • 11月:第二次高天神城の戦い。(~1581年4月)
  • 〃:アルバ公フェルナンドのスペイン派遣軍がリスボンへ入城。
  • 〃:フランスでル・フルクスの和議。ユグノー戦争(第七次戦争)終結。
  • 日付不明:三法師(織田秀信)誕生。
  • 日付不明:ムガル帝国東方のベンガル・ビハール地方にて反乱。(~1581年)
    これに乗じて帝国領内北西のアフガニスタンを統治していたミールザー・ハキーム(アクバル1世の弟)が造反。
  • 日付不明:この頃にユトレヒト同盟を基礎としてネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)成立か。

1581年

  • 2月:アクバル1世がアフガニスタンへ出兵。
  • 3月25日:フェリペ2世がスペイン王兼任のままポルトガル王フィリペ1世(アブスブルゴ朝初代)として即位。
    スペイン・ポルトガル同君連合成立。
  • 4月25日:高天神城主の戦い:岡部元信討死。
  • 8月:アクバル1世がミールザー・ハキームを破ってアフガニスタンのカーブルへ入城。
    ベンガル・ビハールの反乱も程無く鎮圧。
  • 7月26日:ネーデルラント北部7州がフェリペ2世によるネーデルラント統治権の否定を宣言。
  • 10月6日:直江信綱・山崎秀仙謀殺。
  • 11月19日:イヴァン4世が次男にして後継者のイヴァン・イヴァノヴィチを誤殺。
  • 日付不明:最上駒、マサソイト(アメリカ先住民ワンパノアグ族酋長)誕生。

1582年

  • 1月:アルタン・ハン没。
  • 1月15日:ヤム・ザポルスキの和約締結。
    リヴォニア戦争におけるロシアとポーランド・リトアニア共和国間の抗争が収束。
  • 2月1日:宇喜多直家没。
  • 2月13日:宇喜多秀家、宇喜多家家督相続。
  • 2月18日:佐久間信盛没。
  • 2月20日:天正遣欧少年使節が長崎を出航。
  • 2月25日:織田勢(森長可・団忠正)が岐阜より武田領へ東征開始。(甲州征伐開始)
  • 3月8日:浅間山噴火。
  • 3月12日:【甲州征伐】徳川家康が浜松城を出発、掛川城へ至る。
  • 3月24日:佐久間盛政等が能美郡山内庄制圧。加賀一向一揆鎮圧。
  • 〃:【甲州征伐】穴山信君(梅雪)が徳川方へ寝返る。
  • 3月25日:【甲州征伐】高遠城主・仁科盛信自刃。(討死説有)
  • 3月26日:【甲州征伐】武田勝頼が本拠・新府城を放棄。
  • 3月27日:【甲州征伐】徳川家康が穴山信君(梅雪)の案内で甲斐へ侵入。
  • 3月30日:【甲州征伐】織田信忠が甲府に入る。
  • 〃:【甲州征伐】小山田信茂が離反。逃亡して来た武田勝頼を追い払う。(4月1日説有)
  • 4月3日:【甲州征伐】天目山の戦い。武田勝頼自刃。甲斐武田氏滅亡。第三次信長包囲網瓦解。
  • 4月16日:【甲州征伐】小山田信茂刑死。
  • 4月25日:【甲州征伐】恵林寺焼き討ち。住職・快川紹喜(明智光秀と同じ土岐源氏出身説有)焼死。
  • 5月7日:羽柴秀吉が備中高松城を包囲。
  • 6月:土岐頼芸(放浪中に失明)が稲葉良通の計らいにより美濃へ帰還。
  • 6月5日:明智光秀が饗応役として、安土城を訪れた徳川家康や穴山信君(梅雪)等をもてなす。(~6月7日)
  • 6月9日:羽柴勢による普請で水攻め用の堤防が完成。梅雨時の降雨も相まって備中高松城の水攻めが始まる。
  • 6月21日:本能寺の変。織田信長、織田信忠、森蘭丸、毛利新介(良勝)没。
  • 〃:徳川家康と穴山信君(梅雪)が堺より帰国(家康の伊賀越え)開始。信君は途中家康と別れた後落命。
  • 6月23日:清水宗治自刃。秀吉の中国大返し開始。
  • 〃:徳川家康が伊賀越えを経て岡崎城に帰還。
  • 7月2日:山崎の合戦。明智光秀敗死。(通説)
  • 7月3日:藤田伝吾(行政)自刃。
  • 7月4日:安土城炎上。坂本城落城。
  • 〃:明智左馬之助(秀満)、明智十五郎(光慶)自害。(※十五郎は生存説有)
  • 7月6日:斎藤利三刑死。
  • 7月9日:張居正没。以後明朝の執政は万暦帝の親政へと移行。
  • 7月16日:清洲会議。
  • 8月7日:武田元明自害。若狭武田氏滅亡(ただし血統は存続)。
  • 8月22日:スコットランドでリヴァンの襲撃。ジェームズ6世が誘拐の末リヴァン城に軟禁。
  • 9月12日:井伊直虎没。
  • 10月4日:イタリア、スペイン、ポルトガル等でグレゴリオ暦導入。この翌日をグレゴリオ暦1582年10月15日とする。
    (※本項でも以後の出来事をグレゴリオ暦の日付とする。)
  • 11月4日:チュヴァシ岬の戦い。
    ロシアの援助を受けシベリアを東進して来たイェルマーク等のコサック軍が、
    クチュム・ハン率いるシビル・ハン国軍を撃破。同国首都カシリクを一時占拠。
  • 12月11日:アルバ公爵フェルナンド・アルバレス・デ・トレド没。
  • 12月28日:土岐頼芸没。
  • 日付不明:小早川秀秋誕生。
  • 日付不明(本能寺の変後):細川藤孝が家督を忠興に譲り剃髪、「幽斎玄旨」と号して田辺城に隠居。

1583年

  • 4月10日:フーゴー・グロティウス(法学者)誕生。
  • 5月9日:カスピ海西岸付近のバシュテペにてたいまつの戦い。(~5月11日)
    オスマン帝国がサファヴィー朝ペルシアに勝利し、コーカサス地方を再征服。
  • 6月10日:賤ヶ岳の戦い。
  • 6月13日:北ノ庄城の戦い。(~14日)
  • 6月14日:北ノ庄城落城。柴田勝家、お市の方自害。
  • 6月19日:織田信孝自刃。(21日説有)
  • 7月:スコットランドのリヴァン城に軟禁中だったジェームズ6世が同城からの脱出に成功。
  • 7月1日:佐久間盛政刑死。
  • 8月10日:ロシアとスウェーデン間でプリューサ条約締結。リヴォニア戦争終結。
    ロシアはエストニア・ナルヴァ・ラドガ湖西岸地区をスウェーデンに割譲し、バルト海進出に失敗。
  • 12月:羽柴秀吉が本拠を大坂城(豊臣大坂城。同年築城か)に移す。
  • 12月20日:天正遣欧少年使節がインドのゴアに到着。
  • 日付不明:ローマにてクイリナーレ宮殿(現・イタリア大統領官邸)建設。グレゴリウス13世の夏期住居となる。
  • 日付不明:ルドルフ2世が神聖ローマ帝国帝都をウィーンからプラハへ遷都。(~1611年)

1584年

  • 2月27日:李珥没。これにより士林派内での党派間抗争が激化。
  • 3月28日:イヴァン4世崩御。
    ツァーリの地位は三男のフョードルが継承(リューリク朝ロシア・ツァーリ国第2代(末代)フョードル1世)。
  • 4月14日:脇坂安元誕生。
  • 4月27日:羽黒の戦い。羽柴秀吉・徳川家康間による小牧長久手の戦い開始。(~12月13日)
  • 5月4日:沖田畷の戦い。竜造寺隆信敗死。
  • 5月18日:長久手の戦い。池田恒興、森長可戦死。
  • 6月:小寺政職没。(1582年没説有)
  • 6月15日:楠木正盛刑死。楠木正成を祖とする楠木宗家滅亡。
  • 6月19日:アランソン公爵フランソワ(国王アンリ3世の弟。当時フランス王位推定相続人)没。
    これによりナバラ王アンリ3世が時期フランス王位継承権第一位となる。
  • 7月10日:オラニエ公ウィレム1世暗殺。
    ホラント・ゼーラント統領職は次男のマウリッツが継承し対スペインとの交戦継続。
    オラニエ公領は長男のフィリップスが相続したがカトリックである為マウリッツと対立。
  • 8月:室賀正武謀殺。
  • 8月10日:天正遣欧少年使節がポルトガルのリスボンに到着。
  • 9月15日:筒井順慶没。
  • 11月5日:羽柴秀吉が従五位下・左近衛権少将に任官。
  • 11月25日:フェリペ2世がマドリードを訪れた天正遣欧少年使節を歓待。
  • 12月22日:羽柴秀吉が従三位・権大納言に任官。
  • 日付不明:宮本武蔵誕生。
  • 日付不明:アブドゥッラーフ2世がバダフシャンを占領。
  • 日付不明:パジャン王国からマタラム王国分離独立。

1585年

  • 1月18日:天正地震。
  • 3月:フランス北部をギーズ公爵アンリ等が占領。ユグノー戦争再開。(第八次戦争。~1588年)
  • 3月1日:天正遣欧少年使節がイタリアのリヴォルノに至る。
  • 3月23日:天正遣欧少年使節がローマで教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
  • 4月9日:羽柴秀吉が正二位・内大臣宣下を受ける。
  • 4月10日:ローマ教皇グレゴリウス13世没。
  • 4月24日:第227代ローマ教皇シクストゥス5世就任。(5月1日戴冠。戴冠式には天正遣欧少年使節も出席)
  • 5月15日:丹羽長秀没。
  • 7月:羽柴秀吉が近衛前久の猶子となり、姓を平から藤原へ改める。
  • 〃:アンリ3世がギーズ公アンリの圧力を受ける形でヌムール勅令発布。
    ユグノーへの弾圧政策とナバラ王アンリ3世のフランス王位継承権無効を宣言。
    以後、ユグノー戦争は従来の宗教内戦に加えフランス王アンリ3世・ナバラ王アンリ3世・ギーズ公アンリの
    ”三アンリ”によるフランス王位闘争の様相を呈する様になる。
  • 7月30日:ミールザー・ハキーム没。これによりカーブルはアクバル1世の直轄地となる。
    また、北方のブハラ・ハン国の動向に備えるためアクバルが帝都をファテープル・シークリーからラホールに遷都。
  • 8月5日:シビル・ハン国首都カシリクを占領していたイェルマークが同国残党と交戦・逃亡の途中溺死。彼のコサック軍も壊滅。
  • 8月6日:羽柴秀吉が従一位昇叙、正親町天皇より関白宣下を受ける。
  • 〃:イングランドとオランダ間でノンサッチ条約締結。オランダへの軍事援助を約束する。
    これによりイングランドが八十年戦争に介入しスペインと対立。
  • 8月20日:長宗我部元親が秀吉に降伏。四国平定。
    また、この頃に黒田官兵衛(孝高)がキリスト教に入信。
  • 〃:英西戦争開戦。(~1604年8月18日)
  • 8月28日:光宗・泰昌帝(明朝第15代皇帝)誕生。
  • 9月以降:羽柴秀次の居城となる近江八幡城築城、城下町移転に伴い安土城廃城。
  • 9月9日:リシュリュー(ブルボン朝フランス宰相)誕生。
  • 9月25日:信濃で第一次上田合戦。(~10月21日)
  • 10月29日:偽ドミトリー1世(ロシア・ツァーリ国の動乱期のツァーリ)誕生。
  • 10月31日:羽柴秀吉が豊臣姓賜姓。(ただし実際の改姓は太政大臣任官の頃というのが通説)
  • 11月:羽柴秀吉が惣無事令発令。
  • 〃:秀吉による正親町天皇への禁中茶会。この折、茶人・千宗易が参内の為に居士号「利休」を勅賜される。
  • 日付不明:徳川家康が駿府城築城開始。(~1589年完成)
  • 日付不明:細川忠興が従四位下・侍従に任官。羽柴秀吉より羽柴姓を賜姓。
  • 日付不明:パヌンバハン・ユスフ(バンテン王国第3代スルタン)没。
    王位はマウラナ・ムハマド(バンテン王国第4代スルタン)が継承。

見る限り、信長の上洛~本能寺の変前後の期間は日本史における中世から近世への転換期であると同時に、戦国史においても毛利元就・武田信玄・上杉謙信・朝倉義景等の有力武将から織豊政権下の武将への転換期の様にも思われる。
この辺り筆者にとっては各出来事の順序や因果関係が今回ある程度ながらようやく理解できた次第ではあるが、恐らく多くの視聴者にとっては周知の箇所も多々有ると思われるので、差別化とでも言うべきか、本項ではこの時期の世界情勢を対象として以下に述べたく思う。

1570年前後からの十数年は信長が畿内にて覇を唱える時代であったが、世界史レベルで見てみれば、ローマ教皇グレゴリウス13世、イギリスのエリザベス1世、スペインのフェリペ2世、ロシアのイヴァン雷帝、インドのアクバル大帝等、名だたる君主や指導者が同時代人として活躍する時期でもあった。
少し前にはオスマン帝国のスレイマン1世が同国最盛期を築いたが、後に続くセリム2世・ムラト3世は凡庸・暗愚な君主であり、スレイマンの代より宰相を務めたソコルル・メフメト・パシャが存命の間は依然強勢であったものの彼の暗殺後のオスマン帝国は徐々に衰退の一途を辿る様になる。(それでも最終的に帝国が消滅するのは20世紀の話だが)

カトリックの総本山・ローマでは主にこの時期は主に教皇グレゴリウス13世の治世に当たる。
彼の業績として外せないのはやはり新暦(グレゴリオ暦)の導入であろう。従来、キリスト教文化圏ではユリウス暦(共和政ローマの独裁官ユリウス・カエサルにより紀元前45年に導入された太陽暦)を用いて来たが、これは実際の地球の公転周期(惑星からの引力の関係で長い歳月を経る毎に徐々に短くなって行く)に比べると1年で11分程度長く誤差が生じるものであり、本編の時点で約10日程度のズレが生じていた。これはキリスト教において最も重要な宗教行事である、復活祭の挙行日を定める(春分の日を基準に算出される)上で看過できぬ事態であり、トリエント公会議を契機としてユリウス暦に代わる新暦導入の為の専門の委員会が組織される。研究の末、ユリウス暦より精度を上げて改良された新暦・グレゴリオ暦が完成し、1582年10月(年間で最も宗教行事の少ない月らしい…)に改暦が実施された。新暦導入はまずイタリア・スペイン・ポルトガル・ポーランドを皮切りにカトリック文化圏で数年の内に完了し、続いてプロテスタント文化圏にも普及して行った。ちなみに日本では明治5年12月2日の翌日(1873年/明治6年1月1日)より導入。1982年から実に291年後の話である。
また、都市計画と建築によるローマの都市全体の近代化も彼の治世の頃からであり、遅滞していたサン・ピエトロ大聖堂の建設積極化(1588~90年にドーム、1593年に頂塔、1612年にドーム内装がそれぞれ完成)やクイリナーレ宮殿造営もこの一環である。而してこのローマの都市建築の近代化はやがて次代のシクストゥス5世の治世にて本格化して行く事となる。

イベリア半島では12世紀以来スペインとポルトガルが成立し、ともに本国以外にもラテンアメリカやアジアに植民地政策を展開していたが、ポルトガルにてセバスティアン1世が"蒸発"した事で政治的混乱が起こるとスペインのフェリペ2世はこれに介入し、ポルトガルを支配下に置く。同時にポルトガルが領有していた世界各地の海外植民地も獲得する事となり、世に言う「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたスペインの最盛期は丁度この頃に当たる(ただし、中米の征服・植民地化はこの時点で完了しておらず、ユカタン半島内陸部のマヤ文明圏は17世紀末までその命脈を保っている)。このスペインも三十年戦争による消耗や英蘭の海洋進出、ブルボン朝フランスとの戦争、ポルトガルの王政復興運動を経て衰退するのだが、いずれも17世紀以降の事で今しばらく先の話である。(この内ポルトガルの王政復興については、戦地で"蒸発"したセバスティアン1世が実は生存しており、いずれ帰還して民衆を開放するという待望論(セバスティアニズモ)がスペイン統治下のポルトガルで存在していた。奇しくも本編の十兵衛にも似た様な噂が劇中で囁かれているが、もしかすると多少は参考にしたのかも知れない。)
尚、日本との関係はイエズス会の協力のもとに16世紀半ばより南蛮貿易を行っていたが、九州平定後に日本征服を警戒(南蛮貿易の裏で寺社破壊や奴隷貿易が露見)した豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。続く徳川政権もやはり警戒して禁教令を発布し、更に対外貿易もプロテスタント国のネーデルラント(オランダ)へと転換させてスペイン・ポルトガルとの関係を手切れとさせている。

イングランドではスコットランド女王を廃位されたメアリー・ステュアート(メアリー1世)がかねてより亡命中だったが、ローマ教皇による破門宣告もあって度々エリザベス1世の廃位や暗殺計画に関与する様になる(諸説有)。やがてこれらはエリザベス1世の知る所となり、渋々ながらメアリーの首をはねさせた。1587年2月8日の事である。
これに遡って1585年よりイングランドはスペインと交戦中(英西戦争)であったが、スペイン王フェリペ2世はこの事態を受けて無敵艦隊(インヴィンシブル・アルマダ)を派遣、イギリス海峡でイングランド艦隊と砲火を交える事となる(アルマダ海戦)。この海戦自体はイングランドの勝利に終わるものの全体として大西洋上におけるスペインの覇権は揺るがず、英西戦争はエリザベス1世・フェリペ2世両名の没後にスペイン側有利な条件で講和、収束している。
フェリペ2世の後継は子のフェリペ3世が担ったが、一方イングランドの側はエリザベス1世の崩御によりテューダー朝の王統が断絶し、スコットランドのジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として王位を継承する事となる(ステュアート朝イングランド)。
以後、ブリテンはイングランドとスコットランドの同君連合国家となり、今日のイギリスの前身となるのである。

フランスでは本編の期間中一貫してユグノー戦争の只中にあり、度重なる休戦と再戦を経て1585年時点でようやく終盤の段階となる「三アンリの戦い」に至る具合である。この抗争の末にギーズ公アンリ、フランス王アンリ3世が相次いで暗殺(ヴァロワ朝フランス王家断絶)され、生き残ったナバラ王アンリ3世がフランス国内を平定、王位を継承(アンリ4世。ブルボン朝フランス開始)しナントの勅令発布(とヴェルヴァン条約締結)をもってユグノー戦争を終結させる事となる。
そのアンリ4世も1610年に狂信的カトリック教徒の凶刃に斃れ、長子のルイ13世が王位を継承。1624年にはリシュリュー枢機卿を宰相に登用してフランスの中央集権化(絶対王政化)を進めて行く事となる。尚、余談だが日本でもなじみ深いであろうアレクサンドル・デュマ・ペールの小説『三銃士』は丁度この頃を舞台としている。

神聖ローマ帝国ではこの頃主にルドルフ2世の治世であったが、先代マクシミリアン2世がプロテスタントに対し寛容な政策を執ったのに対し、スペイン育ちのルドルフは治世初期こそ穏健的だったものの次第に強硬な親カトリック政策を推し進める。しかしこれが帝国の諸制度を停滞させ、更に1593~1606年の間にオスマン帝国との戦争を起こして国内情勢は不安定となる。彼の後を継いだマティアスはカトリックとプロテスタントの対立の仲裁を試みるも失敗に終わり、両者の対立が激化する治世末期にプラハで窓外放擲事件(第二次)が発生、これを起爆剤に三十年戦争が勃発する事となる。

ネーデルラント(オランダ)では1568年以来スペインと交戦中(八十年戦争)であったが、ヘイリヘルレーの勝利以後は一時的劣勢に傾いたものの1572年に転機を迎える。この年にオラニエ公ウィレム1世はホラント(日本でネーデルラントの事を指す「オランダ」の語源)とゼーラントの両州の統領(総督)に迎えられ、ここを基盤に巻き返しに転ずる事となる。1579年、元々カトリック寄りだったネーデルラント南部3州等がアラス同盟を結んでスペインと和解するが、ホラントやゼーラントを含む北部7州もまた独自にユトレヒト同盟を結び、1581年には後者がフェリペ2世によるネーデルラントの統治権否定を宣言する。この辺りより北部7州は「ネーデルラント連邦共和国」として形成されて行く様になるが、当初は独立国家の成立や共和制への移行を意図した訳でもなく、「北部諸州連合」の体でフェリペ2世に代わりフランスのアランソン公フランソワを新君主として迎えようとしていた様である。しかしフランソワは1584年6月に早世し、それから程無くしてウィレム1世もカトリック勢力の凶弾に斃れてしまう。この通りネーデルラントは新君主を戴く事も無く、その座は諸州をまとめる統領が実質的に担う形となる。これ等は主にウィレムの一族であるオラニエ=ナッサウ家(およびその傍系)が議会から選出されており、ウィレム1世以降の統領も世襲の形で代々担って行くのである。
本編期間後の頃のネーデルラントは1602年に東インド会社を設立し海洋進出に乗り出すが、これが東・東南アジアへ至ると既に同地で貿易を展開していたポルトガル(1580年スペインと同君連合化)と衝突、アジア各地で貿易権を奪取して行く。日本もその一つであり、島原の乱を経てカトリックを警戒した当時の江戸幕府と交渉し、カトリック教国であるポルトガルとの貿易を断絶させる事に成功している。これ等で得た莫大な富は本国にももたらされ、国力の強化を進めて行く事となるのである。
(尚、イギリスの東インド会社も東・東南アジアを巡り彼等と競合する(大坂冬の陣で大坂城を砲撃した徳川方の大砲はイギリス製のセーカー砲やカルバリン砲とされる)のだが、こちらは1619年の宥和政策と1623年のアンボイナ事件を契機に同地から撤退しインドやイランへ活動地域を転換している。)
戦争は1609年以降12年間の停戦状態を挟むが、これが明けた1621年には当時欧州全土を巻き込んだ三十年戦争にもつれ込んで行く。この間に国力を増したネーデルラントは同戦役においてもスペイン含むハプスブルク側に対して戦い抜き、1648年のヴェストファーレン条約をもって正式に独立するのである。
余談ながらその三十年戦争を契機に国際法が整備されて行く事となるが、その創始者の一人として知られるグロティウスはこのネーデルラントの出身である。

中央アジアは中世期のモンゴル帝国分裂後数多の国家が興亡を繰り返したが、この中で北方のロシアがイヴァン4世の代までにキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)から独立を果たしており、イヴァン4世の代でツァーリ(君主)の独裁権強化(いわゆる「ツァーリズム」)や行政・軍事の改革に乗り出し、従来の体制の刷新と強国化が著しく進んだ。
しかしそれは反面、従来の大貴族の粛清という恐怖政治の側面も有しており、対外的にもリヴォニア戦争の敗戦によりバルト海進出が頓挫している(一方、東方ではイェルマークの遠征によりシベリアを獲得)。彼の没後、後継のフョードル1世崩御をもって彼等の皇統であるリューリク朝は断絶。ロシアは大動乱(1598年~1613年)と呼ばれる内乱時代を迎え、事態の収拾はミハイル・ロマノフのツァーリ選出(ロマノフ朝ロシア開始)、更にバルト海進出はロマノフ朝第5代・ピョートル1世の登場を待たねばならぬ事となる。

東南アジアにおいてはこの頃タウングー朝ビルマ(ミャンマー)のバインナウン王が強勢を誇る頃であり、隣国シャム(タイ)のアユタヤ王国を一時滅ぼす程であったが、彼の没後はナレースワン大王によりアユタヤ再興が成り、勢力を盛り返している。尚、アユタヤ王国には14世紀より日本人町が存在しているが、これが歴史的に脚光を浴びる程栄えるのはナレースワン大王から三代後のソンタム王の治世(在位:1611~1628年)である。
また、東南アジアと言えば古代より南シナ海とインド洋を結ぶ海上交易の要衝として知られるマラッカ海峡が知られているが、同地は1511年以来ポルトガルの統治下にあった。しかし高い関税や貿易上の制約を課して海峡の通交を管理しようとした事や、イスラム商人等を弾圧した背景から交易商人(特にイスラム商人)たちは次第に同地を敬遠し、スマトラとジャワを挟むスンダ海峡を経由するルートに移行して行った。当時スマトラ島北部にはアチェ王国、南部およびジャワ島西部にはバンテン王国が存在していたが、ジャワ島中部からやがてマタラム王国が勃興し、更に後世には海洋進出したオランダがこれらの国を支配下に置く事となる。

南アジアのインドでは1526年以来モンゴル系イスラム国家のムガル帝国が興っていたが、第2代・フマーユーンの代に一時滅亡する。その後フマーユーンは亡命期間を経て勢力を盛り返すが、復位して半年程で事故死する。道半ばで果てた彼の復興事業は後を継いだ第3代・アクバル大帝により引き継がれ、彼の治世中に帝国の版図はアフガンからインド亜大陸北方一帯に至るまで拡大。本編の時期は国内の権力基盤を固めたアクバルが丁度版図拡大へ乗り出す頃に当たる。

東アジアでは明朝が隆慶帝~万暦帝の治世下であったが、隆慶帝の治世において長年の懸案事項だった北虜南倭問題に進展が生ずる。海上の倭寇対策として海禁政策を撤廃し、北方においてもモンゴル系民族国家である北元(前王朝・元朝の後身)のアルタン・ハンとの和議が結ばれ、モンゴルと明朝との交易が始まる。隆慶帝に続く万暦帝も当初の治世において大学士(宰相)を置く体制を採っており、時の大学士・張居正によって諸改革が実施された。特に著名な物として税制改革が有り、従来の現物納と労役によって徴収する両税法から、より簡素に銀納一本化とする一条鞭法への転換が彼の功績として知られている。これにより明朝の国庫は一時持ち直すが、張居正が没して万暦帝の親政(1582~1620年)が始まると財政は豊臣秀吉による朝鮮出兵の対応等で再度悪化、更に後継者選定や私腹を肥やして贅の限りを尽くす等の問題が以後の明朝に影を落とす事となる。万暦帝の悪政に端を発する東林派閣僚の台頭と宦官の政治介入によるこれ等との政争が始まり、対外的にも治世末期には北方の満州にて女真族をまとめ上げて後金(後の清朝)を建てたヌルハチが明朝への攻勢を始める等、明朝の衰退はこの頃より見え始める。他方、文化的には本草学(≒薬学)の発展が著しく、特に著名な薬学百科全書『本草綱目』の刊行は彼の治世下である。また陶磁器においても明朝で盛行した「五彩」(色絵の白磁器)の中で万暦年間に作られた物は特に華美であり、これ等は日本においては「万暦赤絵」の名で珍重されることとなる。
李氏朝鮮では明宗崩御後、甥の李昖が第14代朝鮮王(宣祖)として即位するが、彼の治世下で官僚として登用していた儒学者たちが思想的・政治的対立から派閥闘争を展開する様になる。更に軍備においてもこの頃には国防が軽視された結果有名無実化しており、この様な状況下で豊臣秀吉による朝鮮出兵を迎える事となる。

その後…

以下は主に本編終了後の登場人物たちの動向につき、周辺情勢の情報は割愛。

  •   1586年
    • 3月:聚楽第築城開始。
    • 6月20日:荒木村重(道薫)没。
    • 9月7日:誠仁親王薨去。
    • 11月14日:徳川家康が権中納言に任官。
    • 12月7日:徳川家康が大坂城にて豊臣秀吉に臣従。
    • 12月17日:正親町天皇が孫(誠仁親王の遺児)の和仁親王(後陽成天皇)に譲位。
  • 1587年
    • 1月12日:徳川家康が浜松城から駿府城へ本城移転。
    • 1月27日:羽柴秀吉が太政大臣任官。(通説では藤原姓から豊臣姓への改姓もこの頃か)
    • 6月13日:島津義久が豊臣秀吉に降伏。
    • 6月22日:島津義弘が兄・義久の説得を受け豊臣秀吉に降伏。秀吉の九州平定完了。
    • 7月24日:バテレン追放令発令。
    • 8月6日:黒田官兵衛(孝高)が豊前6郡12万3千石(検地後18万石)を豊臣秀吉より受領。
    • 9月10日:徳川家康が従二位・権大納言に任官。羽柴姓(豊臣姓も?)賜姓。
    • 10月:聚楽第完成。豊臣秀吉が同地に転居。
  • 1588年
    • 1月:黒田官兵衛(孝高)が中津城築城。
    • 1月26日:徳川家康が左近衛大将・左馬寮御監を任官。(~2月9日までに両職辞任)
    • 2月9日:足利義昭参内。将軍職を返上(名実共に室町幕府終焉)。
      以後義昭は受戒して「昌山(道休)」と号し、朝廷より准三宮の待遇を受ける。
    • 5月9日:後陽成天皇聚楽第行幸。
    • 7月7日:佐々成政切腹。
    • 8月29日:刀狩令・海賊停止令発布。
    • 日付不明:細川忠興が豊臣姓賜姓。
    • 日付不明:この頃、浅井茶々が豊臣秀吉の側室となる。
      また、鶴松懐妊後は淀古城を賜り「淀の方(淀殿)」と呼ばれる様になる。
  • 1589年
    • 6月:黒田官兵衛(孝高)が家督を嫡男・長政に譲る。(秀吉の側近役は継続)
    • 7月9日:豊臣鶴松誕生。
    • 12月26日:稲葉良通没。
  • 1590年
    • 5月3日:山中城・韮山城の戦い。小田原征伐開始。(~8月10日)
    • 8月10日:北条氏政自刃。小田原城開場。小田原征伐完了。(大名としての後北条氏滅亡)
    • 8月25日:豊臣秀吉、宇都宮城入城(宇都宮仕置。~9月13日頃)
    • 8月30日:徳川家康が関東に移封。江戸城に入る。
  • 1591年
    • 2月15日:豊臣秀長没。
    • 4月21日:千利休自刃。
    • 5月6日:陸奥で九戸政実の乱。(~10月21日)
    • 9月22日:豊臣鶴松夭折。
    • 10月21日:九戸城開城。九戸政実の乱鎮圧(政実は11月6日刑死)。豊臣秀吉の天下統一完成。
  • 1592年
    • 2月11日:豊臣秀吉が養子の秀次に関白職と豊臣氏長者を譲位。
    • 5月24日:小西行長が釜山に上陸。文禄の役開始。
    • 8月29日:豊臣なか(大政所/天瑞院)没。
    • 10月21日:徳川家康が豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
    • 12月27日:顕如示寂。
  • 1593年
    • 1月10日:元号が「文禄」に改元。
    • 2月6日:正親町天皇崩御。
    • 8月:豊臣秀吉が指月伏見城へ本拠を移す。
    • 〃:黒田官兵衛(孝高)が剃髪。「如水軒円清」と号す。
    • 8月5日:文禄の役収束。
    • 8月29日:豊臣秀頼誕生。
    • 8月31日:今井宗久没。
  • 1595年
    • 8月20日:豊臣秀次自刃。 (秀次事件)
      この事件に際し細川忠興が秀次からの借金を徳川家康の用立てにより豊臣秀吉へ返納。
  • 1596年
    • 6月3日:徳川家康が正二位・内大臣に任官。
    • 9月5日:慶長伏見地震。指月伏見城倒壊。
    • 12月16日:元号が「慶長」に改元。
  • 1597年
    • 4月7日:豊臣秀吉が朝鮮出兵再開号令。慶長の役開始。
    • 6月:豊臣秀吉が木幡伏見城に本拠を移す。
    • 7月26日:小早川隆景没。
    • 10月9日:足利義昭没。
  • 1598年
    • 4月19日:六角義賢(承禎)没。
    • 4月20日:醍醐の花見。
    • 9月18日:豊臣秀吉没。
    • 12月23日:小西行長・島津義弘等が釜山から撤退。慶長の役終結。
  • 1599年
    • 4月27日:前田利家没。
    • 7月11日:長宗我部元親没。
  • 1600年
    • 8月25日:細川たま(ガラシャ)没。
    • 8月27日:田辺城の戦い。豊臣方の小野木重勝等が細川藤孝(幽斎)の籠る田辺城を包囲。(~10月12日)
    • 10月10日:第二次上田合戦。(~10月14日)
    • 10月12日:勅命による講和に伴い田辺城開城。田辺城の戦い終結。
    • 10月19日:石垣原の戦い。黒田如水が大友義統を撃破。
    • 10月21日:関ヶ原の戦い。
    • 日付不明(関ヶ原の戦い以後):細川忠興が豊前・豊後2郡39万9千石で中津城へ入封。(中津藩成立)
      尚、旧中津城主の黒田長政は筑前52万3千石名島城へ加増・転封。
  • 1602年
    • 2月27日:徳川家康が従一位に昇叙。
    • 日付不明:細川忠興が旧・毛利の城だった小倉城を改築開始(~1609年)、同城に藩庁移転。(小倉藩成立)
  • 1603年
    • 3月24日:家康が後陽成天皇より右大臣・征夷大将軍宣下。江戸幕府開府。(尚、右大臣職は11月18日に辞職)
  • 1604年
    • 4月19日:黒田官兵衛(孝高/如水)没。
  • 1605年
    • 5月24日:徳川家康が将軍職辞職。
  • 1608年
    • 4月25日:徳川家康が駿府城に移り住む。
  • 1610年
    • 10月6日:細川藤孝(幽斎)没。
  • 1611年
    • 5月9日:後陽成天皇が第三子・政仁王親王(後水尾天皇)に譲位。
  • 1612年
    • 6月7日:近衛前久没。
  • 1614年
    • 12月19日:木津川口の戦い。大坂冬の陣開始。(~1615年1月19日)
  • 1615年
    • 1月19日:【大坂の陣】豊臣・徳川間で和議が成立。大坂冬の陣終結。
    • 5月24日:【大坂の陣】郡山城の戦い。大坂夏の陣開始。(~6月4日)
    • 6月3日:【大坂の陣】天王寺・岡山の戦い。
    • 〃:【大坂の陣】豊臣大坂城炎上・落城。
    • 6月4日:【大坂の陣】豊臣秀頼・淀殿自刃。大坂夏の陣終結。豊臣家滅亡。
    • 8月30日:徳川秀忠(名義上。実質的には徳川家康)が武家諸法度制定。
    • 9月5日:元号が「元和」に改元。
    • 9月9日:徳川家康・徳川秀忠・二条昭実が禁中並公家諸法度制定。
  • 1616年
    • 5月2日:徳川家康が太政大臣に任官。
    • 6月1日:徳川家康没。
  • 1624年
    • 4月17日:元号が「寛永」に改元。
  • 1632年
    • 日付不明(7月中旬以降):細川忠興が肥後54万石に加増・移封。
  • 1643年
    • 11月13日:南光坊天海遷化。
  • 1646年
    • 1月18日:細川忠興没。

尾張n…もといおわりに

いやー長い長い。(苦笑)

本編開始時に真新しい武器として鉄砲が登場した事、光秀自身が鉄砲の名手という逸話の持ち主である事、そしてその鉄砲という代物が元々渡来の品物であり、信長や堺の商人等の富の影にキリスト教宣教師等の海外勢力が見え隠れしている事や、更に本放送当時NHKスペシャルで織豊(特に織田)時代の世界におけるカトリックを扱った番組が放送された事等から、これは「鉄砲」をキーに異国の勢力もバリバリ介入して来るだろうなぁと筆者は踏んでいたものの、終わって見ればさして大々的に介入する訳でもなく、永禄の変以降は鉄砲も小道具的な役割にシフトして行き、恐らく本筋にして根幹であろう「十兵衛がこの時代をどう生き、麒麟がくる様な世を到来させるためにどう奔走するか」に次第と傾注させて行った印象が有る訳で。
これ自体は正解だと思うものの、長篠の合戦を飛ばす等の駆け足振りや序盤から桶狭間までに見られた様な殺陣描写が後半はぱったりと消えてしまった点を見ると、コロナ禍が無ければ果たしてどんな作品になっていただろうかと思わぬでもない次第。
他方、従来の過去作では信長側の勢力中心でストーリーを展開させるのが常だった構図に対し、本作では比較的室町幕府側の視点が多く採り入れられた点は特筆すべきポイントのように思われる。
尚、多くの視聴者が感じたであろう「従来あった謀反人としての光秀像からの脱却」という点については過去の作品よりその片鱗は見てとれる傾向の様に筆者は思うのだが、知る限りここまで踏み込んで描かれたのは初めて見た次第である。その一点のみにおいても、本作を追い続けて良かったと思っている。

さて、本編は本能寺の変と山崎の合戦(からの豊臣政権誕生)をもって幕を閉じたが、放送終了後の長谷川博己氏のコメント動画を拝見する限りでは反響次第で番外編なり続編なりが制作・放送される可能性も示唆される様である。過去の前例としては『新選組!』(2004年)の続編が正月時代劇枠でリリースされた事が有ったので、十分に考えられるかも知れない。
何を隠そう筆者もいまだに麒麟ロスを引きずっているので、もし実現するとなれば嬉しく思う次第である。

尚、次作『青天を衝け』も既に放送開始して幾らか時間も経過しているものの、こちらに関しては今の所今回の様な考察を行う予定は無いのであしからず。
(時代的にはより世界史との関連が強いものの、その分本作以上に執筆時間を要するものと想定される為。
本作ですら数話程度の考察しか書けなかったのが次作でもできるとは思えないわけで。(苦笑))

それでは、これにて。

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