はいどーも、SQでござい。
前回分までは2周遅れで書き込んでいましたが、とうとう今週で5周遅れと相成りました。
相変わらず巻き返せないでいますが、参りたく。
- おことわり
本考察は(元々世界史専攻だったので)日本史の知識に乏しい筆者が勉強がてら記した物です。
したがって世界史上で当時何が起きていたか等も見たいので、年月日は西暦(グレゴリオ暦導入前なのでユリウス暦)表記に換算して記載しますが、この点何卒あしからず。
前久と晴良
序盤、近衛前久と二条晴良が不敵な笑みを交わし合うシーンが有ったが、
ここでこの二条晴良という人物を見て行きたい。
二条家は藤原北家(藤原不比等次男・房前の家系)九条流の流れをくむ。
九条流とは房前の子孫・藤原忠通の六男・兼実を祖とする家系で、第3代・九条道家の次代で後九条家(長男・教実)・二条家(次男・良実)・一条家(四男・実経)と分かれるが、この内の二条良実から数えて14代目当主となるのが晴良である。
(尚、藤原忠通自身は藤原道長以来続く御堂流の6代目だが、この道長の2代前に当たる藤原師輔の子孫もまた「九条流」というらしい。ややこしい…)
一方の近衛家は、忠通を九条家と共通の祖とするが、忠通の六男・兼実が九条流の祖となるのに対し、忠通の嫡男・基実を家祖とする家系が近衛家となる。前久は近衛基実から数えて17代目の当主に当たる。
ちなみにこの近衛家から分家成立したのが鷹司家であり、近衛家・鷹司家と九条流の後九条家・二条家・一条家を総称したものがいわゆる「五摂家」である。
1252年の鷹司兼平以降、歴代の関白は豊臣秀吉が登場するまで五摂家の中から輩出されることとなる。
晴良は1536年秋に元服・任官し、1549年1月25日に関白宣下、2月2日に従一位に昇叙(1553年2月2日に関白辞職)。晴良の後任には一条兼冬が関白職に就き、前久の関白就任は更にその後の1554年4月3日、従一位昇叙は1555年2月4日の事である。
何と、本編の時点で晴良は関白経験者であり、官位の上でも前久と同じ従一位という事になる。更に言うと晴良は1567年2月3日に准三宮(皇后・皇太后・太皇太后に准じた経済的・栄誉的待遇を受ける称号)宣下を受けており、身分としてかなりの高位に当たる様である。(ちなみに前久や足利義昭も後に准三宮宣下を受けるが、いずれも天正年間とまだ先の話である。)
前久の言によれば「二条家は近衛家が長年関白職を独占しているのが気に入らないのだろう」との事だが、前久以前の関白を調べてみると、晴良含め九条流出身の関白が少なくとも三代連続で続いている。更に遡っても近衛流出身の関白が何代にも亘って長期独占したという訳ではない様だ。
しかし在職期間で見てみると直近三代がそれぞれ3年半(一条房通)、4年(二条晴良)、1年(一条兼冬)程度であったのに対し、前久は何と14年以上も関白職に就いていた事が判った。
この事から晴良が不満を持つとするならば、「近衛家」と言うよりは前久個人に対してと解釈するのがどうやら妥当な様である。
尚、今回の晴良との衝突が足利義栄の将軍宣下辺りだとすれば、前久の在職も丁度14年目になるかならないか辺りの頃と思われる。彼の任期はまだもう少しだけ続くのである。
義秋から義昭へ
1567年12月21日、それまで敦賀に留められた足利義秋は一乗谷の安養寺に迎えられる事となる。
1568年5月11日、二条晴良を一乗谷に招いて元服式が執り行われる。この折、従来の「義秋」では「秋」の字が不吉という理由から改名しており、今日知られる「義昭」と名乗る様になる。
(尚、何故「秋」の字が不吉なのかについては特定出来ず。無念。)
ちなみに紀行にて紹介された南陽寺での花見は1568年4月頃の模様。
折角なのでその折の和歌も記載する。
もろともに 月も忘るな 糸桜
義秋
年の緒長き 契と思はゞ
君が代の 時にあひあふ 糸桜
義景
いともかしこき けふのことの葉
ここで言う「糸桜」とは枝垂桜の祖先と推定される種類であり、長く枝垂れる桜の様に長きに亘る繋がりを望む旨の歌を義秋が詠み、これに義景が同意する旨の歌を返している。
1566年10月22日の敦賀動座から見ると、この時点で既に義秋の越前滞在は1年半にも及ぶ。確かに長い…。
義栄の鐚(びた)銭
一方、摂津ではこの間の3月10日に義栄が将軍宣下を受けて14代将軍となるが、彼を擁する三好三人衆が松永久秀と交戦中である事や、彼自身が背中に腫物を患っていた事等から依然として入京せずに留まっている。
また、人的資源も義栄の側は幕府として執政するには不足が否めず、在京の旧幕臣を取り込む工作も進めている。伊勢貞為(元政所執事・伊勢貞孝の孫。貞孝は1562年に足利義輝・松永久秀により失脚・滅亡、彼の後任となったのが本編でも登場が告知されている摂津晴門である)等はその代表例と言えるかも知れない。
さて、今回冒頭にて二条晴良より
「そもそも義栄を担いだ三好は将軍任官の許しを願い出た折も、先例である礼金の額が足らず、悪質な銭をかき集め差し出した。」
…という台詞が有ったが、ここで当時の貨幣がどういった物なのか見て行きたい。
日本における硬貨の流通は7世紀後期の無文銀銭や708年導入の和同開珎をはじめとした皇朝十二銭辺りから始まるが、後者に関しては時代が下るにつれて貨幣としての信頼が失墜し、(畿内はともかく)全国的には使われなくなって行った。
その後平安時代後期までの一世紀余りの期間は絹や米等の物品をもって経済を回していたが、鳥羽上皇や平清盛が権勢を振るう様になると日宋貿易を盛んにして宋銭を大量に導入し(この辺りの経緯は大河ドラマ『平清盛』に詳しい。)、鎌倉時代後期までにはこれを用いた貨幣流通が再び活発化する様になる。
この中で日本国内でも貨幣を私的に鋳造する例が次第に出始めて来るのだが、こうして造られた銭(「私鋳銭」という)は総じて品質が粗悪であり、「鐚銭」「悪銭」と称して経済の現場から忌避(一般の銭より低い価値で扱われたり、支払の際に受取拒否されたり等)される傾向に有った。
しかしながら当時の東アジアの情勢を見ると、宋銭の供給元である宋朝は南宋期には流通通貨が銀や紙幣へシフトする傍らで宋銭の鋳造が減り、1279年にはモンゴル(元朝)の侵攻の末に滅亡する。続く元朝・明朝も銀と紙幣が基準貨幣であり、日本国内の経済規模に対する硬貨の絶対数は慢性的に不足している様相は否めなかった。(一応室町時代以降に「永楽通宝」という明朝の銅銭が日明貿易や倭寇を通じて東国を中心に流通する様になるが、明朝本国で次第に銀にとってかわられた事や1560年代の倭寇取り締まりにより、やはり日本への流入が途絶えてしまう。)
こうした背景から日本国内ではいかに権力者といえど鐚銭を用いざるを得ぬという有様であり、後年の織田政権が金銀を通貨として認可し、豊臣および徳川政権が石高制を採用した事情もこれが一因となった側面も有る。
今回は義栄側の鐚銭が扱われたが、織田信長にも似た様な事例が有り、誠仁親王の元服に臨んで献上された銭が鐚銭ばかりで非難されたという。
尚、鐚銭の流通自体は国産で品質の安定した「寛永通宝」の発行をもって次第に見られなくなるが、その発行時期は1636年とまだまだ先の話である。
三淵の奸計
今回も『ウルトラセブン』のサブタイトルには合致せず。
サブタイトルだけ見ればさも三淵藤英一人が奸計をめぐらすかの様に見えるが、始まって見れば藤英の他に、朝倉方より山崎吉家と朝倉景鏡も関与している。
尚、阿君丸の夭折に関しては実際に毒殺説が存在する。ただしこれは膳に毒を盛るという手口ではない上に朝倉家の同族争いという色が濃く、義景に上洛を諦めさせる目的とは違う様である。
しかしながら同族争いという観点から見ると、阿君丸夭折に先んじて行われた藤英等の密談の中に景鏡が加わっていた点が興味深い。
景鏡は義景の従兄であり、これまでに幾度も大将格として転戦したとされるが、今回までの具体的代表例としては1564年10月5日の加賀一向一揆征伐等が挙げられる。(密談の中で言及が有った一揆は恐らくこの事だろうか?)
こうした経歴や今回の宴席の席順からも家中でかなり高位のポジションに位置する事がうかがえるが、それにしても登場時より義景に対して所々反発する様子が見え隠れする印象である。
もしかするとこれは5年程後に起こる「一乗谷の戦い」の伏線なのだろうか…?
十兵衛、表舞台へ
これまで、史実ではその前歴が断片的な情報しか無く(有ったとしても後世に記されたもの)謎に包まれていたとされる十兵衛だが、今回の義昭出奔に関する文書で史料上に初めて光秀(十兵衛)の名前が登場する。
細川家史『細川家記』によれば、永禄11年6月23日(1568年7月17日)に足利義昭・細川藤孝が明智十兵衛光秀に付いて信長に謁見したとあり、これがどうやら十兵衛に関するまとまった記述として最初の様である。
(ただし、同書は江戸時代中期に書かれた『明智軍記』からの転載思しき箇所もあり、藤孝およびその子の忠興に関する記述に関しては信憑性において疑問が残る点に留意したい。)
同書における十兵衛は信長側の仲介役として記されている様で、永禄11年7月16日(1568年8月9日)に一乗谷を出た義昭の御供をし、25日(1568年8月18日)に岐阜城下の立政寺に至ったとされる。信長と義昭の会見は27日(1568年8月20日)との事だが、そちらは次回以降の話といった所だろうか。
この頃の情勢
今回は足利義秋の一乗谷安養寺に動座した1567年12月から義昭が越前を出奔した1568年8月までの期間に、世の中で何が起きていたのかを列挙してみたい。
- 1568年
- 2月27日:魏忠賢誕生。
- 3月23日:フランスでロンジュモーの和議。
- 4月:越後で本庄繁長の乱。(~1569年3月)
- 4月11日:寿桂尼没。
- 5月:メアリー・ステュアート、イングランドに亡命。
- 5月23日:ネーデルラントでヘイリヘルレーの戦い。オランダ独立戦争(八十年戦争)勃発。
- 7月23日:大和で信貴山城の戦い。
- 8月:武田元明、越前へ連行。
- 日付不明:豊臣秀次誕生。
魏忠賢とは明朝の宦官である。
元々は貧農の生まれで日々無頼の生活を送っていたが、ある日嬲り者にされた勢いで自ら去勢、その後一念発起して宦官となるという中々ブッ飛んだ経歴の持ち主である。その為文盲かつ無教養だったが媚びへつらいが上手く、また驚異的記憶力と機転の利く頭脳をもって後宮より政界へ進出して行く。
彼が歴史の表舞台に出現するのは隆慶帝の次代・万暦帝の治世からとされるが、特にそこから更に2代後の天啓帝の治世における活動が目立つ。この辺りの明朝は東林党・非東林党による政争の最中にあったが、魏忠賢が東林党より弾劾を受けると大規模な弾圧を行い、次第に朝廷での権力を掌握して行く。
しかし掌握して後は過度な自己顕示、不平分子の摘発・弾圧、収賄による私服肥やしを重ね、木工に傾注する天啓帝の傍らで国政を壟断する。この内に明朝の北方ではヌルハチ率いる後金(後の清朝)が強大化しており、次第と明朝を脅かして行く事となる。
魏忠賢は天啓帝の次代・崇禎帝の代になって失脚の末縊死するが、この頃になると明朝の衰退はかなり深刻化しており、後金の台頭と共に滅亡の一途を辿る事となるのである。
越後
今回、左馬之助が「上杉では重臣が武田に寝返って云々」と言及していたが、時期的に見ると椎名康胤や本庄繁長による上杉輝虎への造反(本庄繁長の乱。1568年4月~1569年3月)が丁度合致する。
繁長に関しては元々本庄氏が越後守護・守護代としばしば対立していたという背景に加え、更に一説には輝虎と不仲だった長尾藤景・景治兄弟謀殺に関して輝虎からの恩賞が無かった事への不満が原因とされるが、直接的には武田信玄からの要請を受けた上で造反した様である。
この頃の輝虎は(クーデタにより能登から追放されていた)畠山義続・義綱父子の復権支援に当たる為越中に進軍していたが、その途上で越中一向一揆勢との交戦(1568年4月22日、放生津の戦い)中に繁長の造反が発覚すると輝虎は即座に越後へ戻り、以後一年近くに亘って反乱鎮圧に対応する事となる。
また、輝虎と交戦した越中一向一揆勢や上杉に与していた越中守護代・椎名康胤も武田と内通しており、康胤は本庄繁長の乱に乗じて上杉を離反する事となる。こちらは遅くとも翌1569年9月には輝虎と交戦状態(松倉城の戦い)に入っているが、どうやら1568年3~4月の時点で既に武田と内通していた様である。
上杉と武田は川中島の合戦以降北信を巡っての抗争も収束して行くのだが、こうした信玄による上杉への干渉はどうやら後に控える駿河侵攻への牽制という意味合いが強い様である(駿河侵攻に際し、信玄による北条氏康への説明の中で「越(上杉)と駿(今川)が示し合わせて武田氏を滅亡させようとした事が明らかになった為」との言質が有る)。
今回の繁長造反とほぼ同時期に会津の蘆名盛氏家臣・小田切氏による越後侵攻が起きており、その背景としてやはり盛氏と同盟関係にあった信玄の要請が有ったとされる。
若狭
前回までに義昭が和田より若狭の小浜へ至り、政情不安定の為短期間の内に越前へ動座したが、この辺りの若狭をより詳しく見て行きたい。
若狭武田氏は1440年以降若狭の守護職にあったが1558年頃の第8代当主・義統の代になると父・信豊との家督相続を巡る対立や、有力家臣である粟屋勝久や逸見昌経等の造反が目立ち、凋落の一途を辿っていた。
特に家臣の造反は独力で鎮圧出来ず、義統は婚姻関係のある朝倉義景に助力を求める。これを機に義景は粟屋・逸見攻撃の名目で1563年8月以降若狭への出兵を繰り返しており、義昭の若狭動座はそうした情勢下で行われた物であった。
1567年5月16日に義統が没するとその子・元明が勝久に擁される形で若狭武田の家督を継承するが逸見等の家臣の反乱は依然鎮圧出来ず、1568年8月には元明の身柄保護の名目で朝倉勢が若狭へと侵攻する。元明もこれに関して朝倉側の説得に応じ一乗谷へ移住し(強制連行とする見解も有る)、若狭武田は実質的に朝倉の支配下に置かれる事となるが、既に独立状態となっていた粟屋・逸見等は依然抵抗を続けたので朝倉による若狭平定は完全には至らず、事態の転機は信長の介入を待つ事となる。
駿河
東海の駿河では、当時今川氏真を補佐して来た寿桂尼がこの頃に没している。
寿桂尼は藤原北家勧修寺流中御門家の出(本編登場の近衛前久や二条晴良等とは、藤原北家の祖である藤原房前を共通の祖とする)で、一般には今川氏親の正室にして義元の母(生母かどうかについては諸説ある)として知られており、氏親・氏輝・義元・氏真と4代にわたり今川を支えて来た。また、姉に権大納言・山科言綱の正室がおり、その子・山科言継は義理の甥に当たる。
一説には武田信玄と三条夫人との婚儀を斡旋したとされる等、武田との外交にも一役買っていた様だが、彼女の没後はそれも手切れとなり、以後駿河は武田の侵攻に晒される事となる。
大和
大和では東大寺合戦を経て尚、松永久秀・三好義継と三好三人衆・筒井順慶との交戦が継続中であり、形勢は後者の方が優勢に進めていた頃である。
その中で7月23日には三人衆側の三好康長(三好長慶の叔父)による信貴山城攻城戦が展開され、同日の内に信貴山城は落城する。
窮地に立たされた久秀はこの時期三人衆川に包囲されて多聞山城に籠っていたとされるが、その傍らでかねてより信長と通じており、信長の上洛を通しての反撃を待つ事となる。
欧州
フランスではモーの奇襲事件以降ユグノー戦争が再開されたが(第二次戦争)、これは1568年3月のロンジュモーの和議をもって収束した様で、同和議によってプロテスタントの信仰の自由と権利が付与された。
しかしこれを不服としてか、同年夏には各地でカトリック側による迫害が頻発する。北方のネーデルラントでプロテスタント勢力が蜂起した(後述)影響も有り、フランス国内の政情もカトリック側に傾いてしまう。
ロンジュモーの和議も8月に失効し、ユグノー戦争は第三次戦争へと移行。
ユグノーの信仰の自由も同年9月のサン・モールの勅令をもって正式に再び禁止と相成ってしまうのである。
フランスの北方・ネーデルラントは当時ハプスブルク朝神聖ローマ帝国領を経てスペインの統治下に置かれていたが、カール5世の治世中にカルヴァン派プロテスタントが普及すると領内で異端審問が行われる様になり、カール5世の次代フェリペ2世の治世になるとトリエント公会議の決定事項(≒プロテスタントへの糾弾)を実行すべく弾圧が激化、スペイン本国の中央集権化政策と重税政策への反発も相まって緊張状態が高まって行く。
1566年、ネーデルラントの下級貴族(ゴイセン)がトリエント公会議における決定事項の強制の取り下げをネーデルラント総督に請願する一方で、市民階級を中心にネーデルラント各地で反カトリックの暴動が発生する。事態の収拾を図ったフェリペはアルバ公フェルナンドを総督として派遣し、暴動の責任を問う形でプロテスタント派のネーデルラント貴族を粛清する。
1568年4月、これを生き延びたオラニエ公ウィレムが挙兵、スペインに対し再度反乱を起こす。5月23日にオランダ北東部のヘイリヘルレーで戦端が開かれ、これをもってオランダ独立戦争が始まったのである。
同戦役は一時休戦期を挟みつつ、欧州全土を巻き込んだ三十年戦争を経て1648年のヴェストファーレン条約(狭義的にはこの条約に含まれるとされるミュンスター条約)締結まで続いた事から「八十年戦争」の名でも知られている。この条約をもってオランダはスペインからの独立を承認され、ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国の原型)が成立する事となるのである。
後年鎖国下の日本と外交貿易関係を築くオランダ東インド会社はこの連邦共和国時代に設立(1602年)され、世界初の株式会社としても知られる様になる。
イギリスではスコットランド王の座から廃位されたメアリ1世(メアリー・ステュアート)が幽閉先のリーヴン湖城を脱出し、6,000人の兵を集めて挙兵するという事態が発生する。
この折、ジェームズ6世摂政にしてメアリーの異母兄・マリ伯ジェームズと対峙して敗れたメアリーはエリザベス1世の統治するイングランドへ亡命する。
エリザベスは当初メアリーの復位を意図するが、枢密院との協議の末イングランド国内に抑留・幽閉するという結論に至る。但し「幽閉」といっても実際は割と自由度の高い処遇で、メアリーは同地で19年間を過ごす事となる。
次回「宗久の約束」
サブタイトル的には今回までに時折登場した今井宗久にスポットが当たる様ながら、時期的に見ると義昭・信長による上洛が遂に始まる模様。
次回も楽しみな次第である。