はいどーも、SQでござい。
今週も2周遅れのまんま巻き返せないでいますが、参りたく。
あと、前回同様ながらおことわり。
本考察は(元々世界史専攻だったので)日本史の知識に乏しい筆者が勉強がてら記した物です。
したがって世界史上で当時何が起きていたか等も見たいので、年月日は西暦(グレゴリオ暦導入前なのでユリウス暦)表記に換算して記載しますが、この点何卒あしからず。
羽運ぶ蟻
今回も『ウルトラセブン』のサブタイトルには合致せず。
強いて言うならば「散歩する惑星」「侵略する死者たち」「勇気ある戦い」辺りが品詞的には該当するが、やはり苦しいか。
義秋、立つ
前回は大和を脱出した覚慶一行が和田城へ至った所で終わったが、その後は近江守護だった六角承禎(義賢。1557年に家督を嫡男・義治に譲って自身は剃髪、承禎と号している)を頼っており、承禎に迎え入れられる形で12月13日に矢島(矢島御所)に至っている。前回の記事でも言及したが、覚慶は同地で1566年3月8日に還俗して足利義秋と名乗り、5月10日に従五位下・左馬頭へ叙位・任官される事となる。また、越後の上杉輝虎をはじめとする諸大名へ幕府再興を依頼しており、上洛へ向け準備を進める事となる。
しかし1566年9月12日、六角方より義秋捕縛の兵が差し向けられる。三好方へ内通した承禎・義治父子が離反したのである。これにより六角を警戒した義秋一行は矢島を追われ、若狭の武田義統を頼って小浜へ動座する。ところがこの若狭武田家も家督抗争や重臣の謀反等で安定せず、上洛に呼応するどころの状況ではなかった。次に義秋一行は越前の朝倉義景を頼って10月20日に敦賀へ至り、本編では今回ここで暫く足止めされる事となる。(敦賀へ至ってから半年が過ぎた旨のナレーションが有る事から見ると、義秋が庭の桜の木の傍で蟻を眺めていたのは1567年4月頃だろうか。)
ちなみに今更ながら、越前へ落ち延びた十兵衛等は長崎称念寺(現・福井県坂井市丸岡町長崎)門前に居住していたという。位置的には一乗谷よりも北方であり、敦賀から見れば中々の距離に見える。今回義秋と細川藤孝が十兵衛のもとを訪れているが、馬で移動したと見るのが自然だろうか。
また余談ながら同寺には南北朝時代に戦死した新田義貞の墓所が在る事でも知られる。義貞は同じ池端脚本作品で現在BSで再放送中の『太平記』でも主要人物として登場もしているので、何とも奇妙な印象である。
信長の美濃平定
今回、織田信長が美濃を平定したので越前にいた牧・十兵衛母子の明智荘帰郷が成っているが、ここでその平定の経緯を見て行きたい。
中美濃攻略後の信長と斎藤龍興の間には、丁度当時矢島にいた足利義秋の上洛に関連して、和田惟政と細川藤孝による調停で一時的に和議が結ばれる。これにより信長は美濃を経由して上洛に呼応する運びとなった。
本編では今回十兵衛を経て信長が上洛の意を固める様な描写が有ったが、史実ではこの時点で既に上洛へ向けて一度動いていた様である。
1566年9月12日、信長は手筈通り上洛の兵を進めるが、河野島(現在の岐阜県各務原市)付近へ至ったところで龍興側が和議を破棄して同地へ進軍。翌13日には木曽川の洪水により両軍共に暫く動きを封じられるが、9月21日に水が引くと信長側が撤退を開始。ここでその多くが川で溺死し、龍興側がその残りを少数討ち取る形となった。(河野島の戦い)
結果は形勢の崩れた信長の退却戦(および上洛支援の頓挫)という体だが、これが斎藤方の最後の勝利となる。
尚、この時の龍興離反についてはほぼ同時期に当初足利義秋の上洛に積極的だった六角承禎・義治父子も離反しており、これ等の背景として龍興へも六角同様、足利義栄を担ぐ三好方の調略が有ったとされる。
1567年9月13日、斎藤家家臣の稲葉良通、安藤守就、氏家直元等三名(いわゆる西美濃三人衆)が離反。彼等より織田への内応を約束する連絡が来ると、信長は一気に稲葉山城下の井口まで侵攻し、同地を焼き払って城を丸裸にしたという。
(本編では今回、良通が龍興への苦言を呈しているが、史実においても1563年に一度守就・直元と共に龍興へ諫言するも聞き入れられなかったという事例が存在する。この後竹中半兵衛等による稲葉山城占拠が起こるが、これには西美濃三人衆の一人・守就も関与したとされる。)
それから26日までの間に信長は稲葉山城包囲を完了させ、翌27日に斎藤方が降伏。龍興は城を放棄して舟で長良川を下り、稲葉山城は遂に信長の手に落ちたのである。
その後の龍興は伊勢長島に落ち延びて、長島一向一揆等信長への抵抗を続けるが、遂に大名として返り咲く事は叶わなかったという。
(斎藤高政没後以来、龍興は一貫して名前だけの本編登場という点から見ると、今後も同様の扱いになりそうである…。)
尚、本編では十兵衛一行が越前に脱出してから11年の間に、伝吾等の手によって明智家居館の再建がなされたとあるが、史実における明智城は1556年の落城以降再興されたという記録が無い。
恐らくこの館は荘内の別の場所に建てられたもの(あるいは明智城は詰城で、館は元々別に在ったか?)と思われる。
帰郷時期は10月(恐らく永禄10年)との事なのでユリウス暦に換算すると11月という事になるだろうか。牧が稲穂を持って踊る様が印象的だったが、調べたところ現在の岐阜県一帯の稲の収穫時期はグレゴリオ暦でおよそ9月終盤の頃。この永禄の時代でもとうに収穫は澄んでいる頃のはずだが、稲穂の状態のままという事は新嘗祭(旧暦11月に日本各地の神社で行われる祭祀)でも控えているのだろうか。
動かぬ越前
本編終盤にて上洛を決意するも、目先の身内のトラブル対処で中々動かない朝倉義景という像が浮き彫りになった印象だが、これまでの越前の状況も見ておきたい。
今回山崎吉家より一向一揆の言及が在ったが、この頃越前の北方の加賀では1488年以来一向一揆の最中であり、朝倉とは1564年頃から交戦状態にあった(ちなみにこの出兵は二度目であり、1555年にも越後の長尾景虎(上杉輝虎)に呼応して一度加賀へ出兵している)。義秋は朝倉家による上洛の支援を期待して両者の調停(時期的には敦賀滞在中か?)も試みたが、結局これは失敗に終わっている。
本編で義秋が蟻を見ていた頃と思われる1567年4月は、丁度朝倉家家臣・堀江景忠が加賀一向一揆と内通して謀反を起こした頃であり、杉浦玄任等加賀一向一揆軍の侵攻も有ってこれ等の対応に当たっていた時期とされる。(ちなみにこの景忠討伐の任に当たったのは他ならぬ山崎吉家(と魚住景固)である。)
義秋が上洛支援を求めた諸大名は各々内紛や隣接する勢力との抗争でそれどころではないというケースが目立ったが、朝倉も例外ではなかった様である。
この頃の情勢
今回は足利義栄の従五位下任官の1567年2月から足利義秋の一乗谷安養寺に動座した12月までの期間に、世の中で何が起きていたのかを列挙してみたい。
- 2月4日:明朝で穆宗隆慶帝即位。
- 2月10日:スコットランドでダーンリー卿ヘンリー没。
- 5月16日:武田義統没。
- 7月26日:スコットランド女王メアリ1世廃位。
- 7月29日:スコットランド王ジェームズ6世戴冠。
- 8月3日:李氏朝鮮で明宗崩御。
- 8月27日:大和で東大寺戒壇院炎上。
- 9月5日:伊達政宗誕生。
- 9月20日:立花宗茂誕生。
- 9月27日:フランスでモーの奇襲。
- 11月10日:大和で東大寺大仏殿消失。
- 11月19日:武田義信自刃。
- 11月23日:村上通康没。
- 12月:嶺松院が駿河へ送還。
- 12月11日:武田信勝誕生。
- 日付不明:塙直之誕生。
塙直之は一般に団右衛門の名で知られる。
前歴に不明な点が多いが、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いの頃辺りは加藤嘉明のもとで従軍しており、その後は幾人かの大名に仕官しては浪人となる事を繰り返した末、一時仏門に入っている。
大坂の陣に際しては還俗して豊臣方の浪人として参戦。『真田丸』で自身の名前を書いた木札をばら撒いた話は実際に冬の陣で行われていた様である。
畿内
今回、松永久秀は名前のみの登場に終わったが、この頃の久秀は三好三人衆や筒井順慶と大和一帯を巡る市街戦を展開していた時期に当たる。(東大寺合戦)
1567年5月24日、三好方の総大将だったはずの三好義継がそれまでいた高屋城を出奔し、堺で転戦中だった久秀のもとへ保護を求めに訪れる。これは義継が若年の為に三好三人衆が家中で実権を握っていた事や、阿波より迎え入れた足利義栄と三人衆が接近する一方で次第に義継がないがしろにされて行った事に不満を覚えての結果であった。
義継を伴った久秀は大和へ戻り、5月19日には多聞山城へ帰還している。
これに対し三人衆側も大和へ入国し筒井順慶と合流、東大寺境内付近にて両軍が布陣し、6月1日に南大門付近で戦端が開かれる。
確認した限りで大規模な交戦は6月24日、6月30日等に起こっているが、都度般若寺等幾つかの寺院が焼き払われている(これは陣を張る為の場所確保が目的とされる)。以後も小規模な戦闘が続いて行くが、その一方で寺院の焼却は次第となくなって行った。この背景としては一説には合戦の経過と共に寺社側より久秀への音物(これ以上寺社を焼かれぬ為の配慮か?)が贈られる様になった為とされる。
こうして多聞山城・東大寺一帯で展開された合戦は次第と膠着化して行った様である。
一方、9月27日に畠山高政が久秀の要請を受け出陣し、これに呼応して当時三人衆側の拠点だった飯盛山城でも造反。畠山・松永側に加勢するという事態が生じた。高政は三人衆側の岩成友通、篠原長房連合軍の迎撃を受け紀伊へ退却するが飯盛山城は依然松永側として抵抗を続け、松永側と三人衆側の交戦は一時大和と河内の二正面作戦という体となる。
戦端が開いてから半年程経過した11月10日の夜、久秀は当時三人衆側が本陣を構えていた東大寺へ総攻撃に出る。三人衆側は不意を打たれた形となり、夜討ちの末に三人衆・筒井連合軍の撃退に成功している。
尚、この交戦中に東大寺境内の穀屋から失火し(三人衆側によって火がかけられたという説も有る等、出火の原因は諸説有り判然としない)、延焼の末に翌11日深夜2時に大仏殿が焼失する。本尊の大仏も損傷を受け、後日首が落下する程の損害であった。正倉院や南大門等、焼け残ったものも有ったが大仏および大仏殿は修理費用の問題からそのまま放置され、再建は120年以上後の僧・公慶の登場を待つ事となる。
こうして大和方面では一時形成を変えた松永側であったが、今一方の飯盛山城は三好長逸の降誘工作により11月21日に開城し、松永側に与した者は堺へ出奔した。
以後も畿内では松永・三好三人衆による抗争が断続的に継続して行く事となる。
甲州
甲斐の武田では川中島の戦い以降、信濃・東海への勢力拡大に方向転換したが、永禄年間に領国の隣接する東美濃をめぐって織田と友好関係を結んでいる。
1565年12月5日にはその一環で信玄の四男・諏訪勝頼のもとに信長の姪(後に養女となる)・龍勝院が嫁いでいるが、こうした路線は織田と敵対していた今川はもとより、武田信玄の嫡男にして親今川派の義信も難色を示したとされる。(そもそも義信の生母・三条夫人の輿入れは今川家の斡旋によるものである。)
そんな義信だが、当初信玄の後継とされたものの後に廃嫡され、幽閉の末に自刃する。その背景には対今川政策をめぐる信玄との確執、第四次川中島の戦いの顛末、信玄暗殺の関与等が挙げられる。
第四次川中島の戦いでは義信自身は上杉輝虎(当時は政虎)相手に奇襲を仕掛ける等活躍しているが、この戦で武田家中の調整役であった武田信繁(信玄の実弟)を喪っており、これが信玄と義信の確執に拍車をかける一因になったという。
1564年8月、義信の後見人・飯富虎昌等が義信を担いで謀反を企てる。これは虎昌実弟の三郎兵衛(後の山県昌景)の密告により露見され不発に終わるが、この廉で虎昌は1565年11月に7日に自害。それにさかのぼって10月には義信も幽閉される事となる。そこから義信の自刃までおよそ一年ほどの間があるが、そこへ至る経緯は不明とされる。
(ちなみに虎昌はその精強さで有名な「武田の赤備え」を最初に率いた人物としても知られているが、彼の没後は弟の正景がそれを継承したという。)
義信廃嫡・幽閉後、信玄の後継には諏訪勝頼が指名された。後の武田勝頼である。
尚、義信には甲相駿三国同盟の一環として嫁いで来た嶺松院(今川義元の娘、今川氏真の妹)という正室がいたが、義信廃嫡・幽閉の折に離縁したとされる。その後も暫くは甲斐に留まった様だが、義信自刃の後は氏真の要請を受け駿河へ送還されている。
その一方、12月11日には諏訪勝頼と龍勝院との間に嫡子・信勝が誕生する。『甲陽軍鑑』によればこの折難産により龍勝院は没したとあるがこれは誤りであり、実際は1571年10月まで存命だったという。
尚、程無く同盟の補強として信玄五女の松と織田信忠との婚約も成立しているが、こちらは後に解消された様である。
東亜
中国では14世紀より明朝が統治して久しいが、1567年1月23日の世宗・嘉靖帝(朱厚熜)崩御を経て2月4日にその第3子・朱載坖が第13代皇帝(穆宗・隆慶帝)に即位した。
明朝は15世紀半ば頃より北方のモンゴル系勢力、16世紀半ば頃より沿岸部の後期倭寇に悩まされており(北虜南倭)、その間の歴代皇帝の中には居城・紫禁城に籠って政治を顧みない者が多くいた。隆慶帝も多分に漏れず宮殿に籠り大学士が執政を代行していたが、国政としてはそれまで規制していた民間の海外貿易を1567年の間に開放し、対海禁政策を運動の元としていた後期倭寇は次第に沈静化する事となる。
本編においては、この明朝の貿易政策の経緯と堺の商人(今井宗久等)との関連が今後示唆される。
また、倭寇と言えば日本の鉄砲伝来・伝播にも種子島伝来説以外に倭寇の存在が関わっているという説が近年有力視されている。本編序盤にしばしばキーアイテムとして登場した鉄砲も元を辿れば彼等によってもたらされた物が含まれているかも知れない。
李氏朝鮮では第13代王・明宗(李峘)が崩御。
その治世は主に生母やその外戚により執政され、彼自身の功績として特に目立ったものは見受けられない。
韓流ドラマ的には『オクニョ 運命の女』の頃の君主として知られるだろうか。
欧州
フランスでは1563年3月12日の「アンボワーズの休戦協定」調印をもってユグノー戦争は一時沈静化するが協定の内容が王室・ユグノーの双方にとっても不満足なものでしこりの残る結果となった。
当時のフランス王家はシャルル9世の代で、彼が未成年の内は生母のカトリーヌ・ド・メディシスが摂政となっていたが、この後にシャルルは成人して形式上は彼の親政へとシフトし(ただし実権は依然としてカトリーヌが握っていた)、王権の復権に努めている。
しかしカトリック教国であるスペインとの接近や、北方のフランドルへのカトリック支援の動きがユグノー側を警戒させ、1567年9月27日にフランス北部付近のモーにてユグノー軍によるシャルル9世誘拐事件が発生する(モーの奇襲)。事件は失敗に終わるが、これがそれまでカトリーヌが採っていたユグノー宥和路線を放棄させ、ユグノー戦争再開の引き金となった。
スコットランドでは前回の記事でも紹介したが、リッチオの暗殺およびジェームズ6世誕生後のダーンリー卿ヘンリーはメアリ1世との一層の不和に加えてこの頃病(一説には梅毒とされる)に侵される。メアリとの関係は表面上は和解する形となったが、程無くして療養していた居館を爆破されて"死亡"している。しかしこの事件後に発見されたヘンリーの遺体には爆発による外傷が無く絞殺の痕跡が残っている等、謎が多い。
ヘンリー没後のメアリは軍人のボスウェル伯ジェームズと接近。5月15日には彼と再婚したが国中から猛反発に遭い、反ボスウェル派貴族等による反乱軍との交戦の末にメアリとジェームズは投降した。メアリは廃位され、ジェームズは以後10年間程の逃避行の末、北欧で拘束され獄死している。
メアリ廃位後はわずか1歳のジェームズ6世が王位継承。17歳になるまでは4人の摂政が執政したが、親政が始まると王権の強化に努めている。
次回「三淵の奸計」
藤英・藤孝兄弟の内では藤孝の方が出番も多く兄の方は現状今一つ影の薄い印象ながら、サブタイトルの文言的には珍しく何かしらアクションを起こす様である。
次回も楽しみな次第である。