はいどーも、SQでござい。
以前から近しい方より「『麒麟がくる』の考察を書いて見ては」とのご意見をいただいていたので、今回はコロナ禍による放送延期を経ての本編再開というのもあって、物は試しにと一筆とってみた次第。
日本史(筆者は元々世界史の専攻)の勉強がてらというのも有って多少長くなると思われるので、ご容赦の程。
京よりの使者
サブタイトルは「京よりの使者」。
割と以前より『麒麟がくる』のサブタイトルはウルトラマンシリーズ作品(特にウルトラセブンが顕著)のそれのオマージュではないか、という噂を耳にしている訳で、それに従えば今回は差し詰め『ウルトラセブン』の「ノンマルトの使者」が元ネタと思われる。
(まあ筆者はウルトラマンシリーズはことごとく未見なので、そちらがどういう内容なのかも未知なのだが…。)
本編におけるその使者は恐らく越前の十兵衛(光秀)のもとへやって来た細川藤孝(のちの細川幽斎)といったところかなと。
この折「久しぶり、息災でしたか」的なやりとりを十兵衛と交わす訳だが、これが長らくご無沙汰だった視聴者にも投げかけている様にも聞こえて何だか微笑ましく感じられる訳で少々感慨。
たま登場
十兵衛の長女の岸と次女のたま(玉/珠。本編ではどちらなのか漢字失念)が登場する。
今回が桶狭間の戦い(1560年)から4年後の話なので、誕生年の1563年から見ればたまは1歳といったところか。
光秀の子女については俗説が多くこれといって定説が無い模様。
『光秀軍記』によれば3男4女であり、「明智系図」では側室の子も含め6男7女とされる。
本編のたまは次女扱いなので、恐らく後者の「明智系図」説を採用している物と思われる。
(尚、同系図では四女とされるが、長女・次女は養女で三宅長閑(明智光廉。光綱(光秀の父)・光安の弟。光秀の叔父)の子であり、光秀の子としては次女なので一致する。)
…となると、長女の岸は後の津田信澄(本編で織田信長に毒殺された織田信勝嫡男。信長の甥にして側近)室という事になるのだろうか。
本編では藤孝と対面の折、抱いてもらう等親密な描写が垣間見える。
歴史通には既におなじみかもしれないが、実はこのたまこそ後の細川ガラシャであり、藤孝の第一子・忠興(初代小倉藩主。肥後細川家初代)の正妻、つまり藤孝とは嫁舅の間柄となる身である。
それを思えば中々ニヤリとする伏線であるが、同時に『真田丸』も観て来た筆者としてはその最期を思うと複雑な心境でもある訳で。
時期的には藤孝もこの年の晩秋に忠興を儲ける事になるので、恐らくこの時点では藤孝の妻も懐妊中と思われる。腕に抱いたたまを通してまだ見ぬ我が子に思いをはせていたのかも知れない。
信長は"劇薬"か?
前話までにレシピを授かって丸薬を作っては無償で提供する駒に対し、薬のもたらす副作用の恐ろしさを説く東庵。
始めは「お駒ちゃんの丸薬が今後危険な展開を生み出すのか?」と思ったが、どうやらこれは今後十兵衛が上洛させようと意図する織田信長の暗示と見るのが自然な様だ。
三好長慶の跳梁により有名無実化した室町幕府を有力大名の助力で盛り返そうとの意図ながら、十兵衛の選んだ信長という人物はこの後起こる事を見ればかなり危険な副作用を伴う劇薬に思われる。
その十兵衛に終盤東庵が助言をするという構図は中々辛辣である。
やさぐれ将軍 義輝
史実によると足利義輝は1559年1月15日の三好長慶との和睦を機に帰京し、更に翌年2月15日には近衛稙家の娘を正室に迎えたとある。
今回登場した関白・近衛前久もまた稙家の子なので、義輝(生母が稙家の妹)とは従兄弟にして義理の兄弟という間柄になるだろうか。
尚、調べ出して判った事ながら、「義輝」という名は本編登場時より一貫して使われていたが、史実では当初「義藤」(1546年9月2日、朝廷より与えられる)であり、「義輝」へは朽木滞在中の1554年3月25日の従三位昇叙を機に改名したとされる。
朽木と言えば本編第10話に十兵衛が訪れているが、この頃は織田信秀(1552年3月27日没)がまだ存命中だったので、義輝はまだ義藤と名乗っていたと推察。(更に言うと1553年9月下旬の東山霊山城の戦いの敗戦以降なので滞在して初の冬場の様である。)
…という事は、側近の三淵藤英・細川藤孝兄弟の「藤」の字は改名前の義藤からの偏諱だったという訳か。
さて本編。今回における義輝の出番は前久との改元の話から始まる。
前久の台詞の中に有った「甲子」とは60年周期で訪れる年であり、古来より変乱の多い年とされた事から平安時代以降これに当たる年に元号を改めるのが通例だった様である。以後、1024年の万寿から明治の一世一元制への移行まで甲子の年には必ず改元されて来たが、唯一の例外がこの1564年、永禄7年とされる。
室町幕府成立後は朝廷と将軍が協議して改元を行うのが慣例であり、弘治から永禄への改元は正親町天皇即位に伴うものであったが、この折は時の将軍である義輝ではなく当時京で実権を握っていた三好長慶に相談して改元を行った。
参考までに義輝の父・義晴は洛外に在っても改元を行っているが、これが出来たのは義晴自身に一定量の政治的基盤と経済力(改元するにもお金がかかるらしい…)が有ったからの様に思われる。朝廷から見れば、長慶に声をかけたのは名より実を取った形となるだろうか。
台詞の中にも有った通り、あずかり知らぬところでの改元に憤慨した義輝は暫く弘治を使い続けたが、朝敵となる事を回避する意図も有って、長慶との和睦を機に永禄を使う様になっている。
こういった経緯も有ってか今回は義輝に帝を軽んじる言質が見受けられたが、実際義輝も宮中への参内は生涯でたった5回と少なく、朝廷軽視とそれがもたらした結末については後世信長にも言及されている。
今回の発言はフラグが一つ立ったと見て良さそうである。
また、他に言及の有った子女について。
劇中にて「臣下へ娘を人質に送る主君がどこにいるか」という台詞が有る。
義輝の配偶者は正妻の他に小侍従(進士晴舎娘)が一人おり、子女は記録上では1男3女、特に次女・三女は小侍従との間に儲けている事が判っている。
長女は1556年、次女は1564年4月15日、三女は1565年に生まれているので、三好方への人質は長女ないし次女と思われる。(次女が生まれたか生まれないかという時期を考えると長女と見るのが妥当か?)
尚、男子では嫡男に足利輝若丸(1562年5月13日生)がいたが、生後3か月で病死している。
他に烏丸氏との間に尾池義辰が該当するとされるが、史料によっては義輝・義昭兄弟の弟という記述もありはっきりとはしていない。
更に他には義高という子もいた様だがやはりはっきりとは判らない。
大和国の松永久秀
戦国屈指のボンバーマn…もとい梟雄と名高い松永久秀。
斎藤道三とは同郷の山城国宇治出身を意識してか、すっとぼけ具合も次第と似て来たきらいがある。
さて、その久秀が前話にて信長が桶狭間を戦った頃辺りから本話に至るまでどうなっていたかを具体的に見て行きたい。
少なくとも1559年の時点で楠木正成の子孫・楠木正虎を配下に加えていた様で、彼の朝敵赦免の嘆願を取り成したという。
奇しくも今年はBSで『太平記』(ちなみに今回の22話が放送された8月30日は神回と噂される「鎌倉炎上」が放送)が再放送されている事を思えば少々感慨めいたものがある。
本編でも言及された大和国へは1559年9月17日より侵攻を始めたらしく、同地を統治していた筒井順慶、翌1560年には興福寺を破って大和国を平定した様である。尚、久秀は同年2月26日に弾正少弼に任官されているが、それ以前から弾正少忠の官位にあった様で彼の通称「弾正」がどちらに由来するかは筆者は知らない。
1561年2月には従四位下昇叙、足利義輝より御供衆への任官および桐紋(皇室と室町幕府のみ使用を許される紋)・塗輿の使用許可と、三好長慶(こちらも従四位下)と並ぶ待遇にまで出世。前話の桶狭間で塗輿が今川義元の目印とされた点を見ると中々凄い。
その後1562年の間には六角義賢、畠山高政、伊勢貞孝・貞良父子、十市遠勝等と交戦した様だが、本編では特に言及も無く省略されている。
家督を久通に譲ったのは永禄6年12月14日(1564年1月8日)、更に妻(公家・広橋国光の妹、保子か)を亡くしたのが同年4月29日の話なので、後述の三好長慶の死去を加味すると今回の時期はそこからおよそ3ヶ月以内の話という事になるだろうか。
久秀の城
時に、久秀と言えば築城の革新者的存在でもあるが、その久秀の居城としては信貴山城と多聞山城がある。
前者の信貴山城は久秀の死没地として知られているが、城郭としては一説には南北朝時代から存在していた様で1560年の大和国平定を機に久秀が居城として利用していた様である。
また同年には信貴山城より北東に20km、聖武天皇陵付近の平山に多聞山城を築城しており、山城の信貴山城は軍事目的、平山城の多聞山城は政治目的と用途を分けていた様である。
多聞山城の特徴としては当時としては珍しい部類の四層の天守があったという事と長屋形状の櫓(その名も「多聞櫓」という)を初めて導入した事、更に建築物の装飾が華美というものがある。ポルトガル人宣教師の書簡によれば、真っ白な壁に黒い瓦葺、御殿の屋内は絵以外の装飾が金色に施されており、金と彫刻で装飾された柱の中心に大きな薔薇があったという。筆者おもえらくこの時期に薔薇の装飾は珍しい気もするが、調べてみると薔薇自体は西暦700年代(飛鳥時代末期~平安時代初期)には存在していた様である(但し今日おなじみの西洋薔薇は江戸時代に入ってからで、それ以前は原種か中国渡来のものである模様)。
この書簡は「日本全国よりこれを見るために来る」と末尾に記述しており、識者や住民に城内を公開していた様である。そしてこれは後に築城される信長の安土城や光秀の坂本城にも通ずるものがある。
本編の多聞山城は屋内のセットこそ(史料にて記述される程には)華美でもないが、外観として天守が映っている様がニヤリとさせられる次第である。
三好長慶、退場
初回より洛中を三好の旗指物が闊歩する程度には京を実質的に支配した三好長慶だが、1560年代には晩年期に達していた様である。
本編ではやはり省略されているが、この頃は自己の権勢維持に必要だった細川晴元(1563年3月24日没)・氏綱(1564年1月4日没)を相次いで喪い、また1561年4月2日に三弟・十河一存が病死、1562年4月18日に長弟・三好実休が戦死、1563年9月12日に嫡子・義興も病死する等身内の不幸が続き、精神に異常を来していた様である。更に1564年6月17日には次弟・安宅冬康を謀反のかどで誅殺するが、死後無実とわかると後悔に苛まれて病状が悪化したという。
尚、これに関連して一存・義興の病死や冬康の誅殺は松永久秀による暗殺説や讒言説が囁かれているが、義興の暗殺説に関して史実での信憑性は低い。
冬康に関しても無実であるにもかかわらず誅された事は共通するが、史料によって久秀による讒言という記述と讒言自体は有ったが久秀とは断言していない記述とに分かれており、見解として一致しない様である。
1564年8月10日、長慶は河内の飯盛山城にて没した。
劇中では特に精神異常の描写も無く最期を迎えたが、それよりは政敵として足利義輝の障壁となっていた存在が消えたという意味合いが強く見える。
長慶没後の三好は一存の子にして長慶の養子・義継が継承して義輝と対峙すると思われるが、それは今後の成り行き次第といったところか。
この頃の情勢
ここまでは登場人物を中心に見て来たが、1560年~1564年8月頃の世の中では何が起きていたのかを列挙してみたい。
- 1560年5月5日:後藤又兵衛基次誕生。
- 1560年6月12日:桶狭間の戦い。今川義元の他、井伊直盛も戦死。
- 1560年6月21日:土佐で長浜表の戦い。長宗我部元親初陣。
- 1560年(日付不明):石田三成・直江兼続誕生。
- 1561年1月9日:尼子晴久死去。
- 1561年3月4日:井伊直政誕生。
- 1561年4月30日:長尾景虎(後の上杉謙信)が上杉姓相続。上杉政虎と改名。
- 1561年5月25日頃:松平元康(後の徳川家康)が三河牛久保城へ奇襲。今川からの自立顕著化。
- 1561年6月23日:斎藤義龍(高政)死去。
- 1561年10月4日~28日:信濃で第四次川中島の戦い。武田信繁、諸角虎定、山本勘助等戦死。
- 1561年12月7日:吉川広家誕生。
- 1561年(日付不明):スペイン王フェリペ2世が首都をマドリードに遷都。
- 1561年(日付不明):ロレンソ了斎がイエズス会入会。
- 1561年(日付不明):福島正則誕生。
- 1562年2月15日:前田利長誕生。
- 1562年2月18日:織田信長と松平元康が清洲同盟締結。
- 1562年3月1日:フランスでヴァシーの虐殺。ユグノー戦争開始。
- 1562年4月24日:明朝で徐光啓誕生。
- 1562年7月25日:加藤清正誕生。
- 1562年8月頃:毛利元就が出雲侵攻開始。
- 1562年(日付不明):長束正家・糟屋武則誕生。
- 1563年正月:三河一向一揆。
- 1563年2月:毛利元就が石見銀山を朝廷と幕府に寄進。
- 1563年9月4日:明朝で神宗万暦帝誕生。
- 1563年11月28日:細川忠興誕生。
- 1563年12月4日:トリエント公会議終了。
- 1563年(日付不明):大村純忠がキリスト教に改宗。日本初のキリシタン大名となる。
- 1563年(日付不明):ルイス・フロイス来日。
- 1563年(日付不明):明智たま(細川ガラシャ)・加藤嘉明・京極高次誕生。
- 1564年2月15日:ガリレオ・ガリレイ誕生。
- 1564年2月18日:ミケランジェロ・ブオナローティ死去。
- 1564年2月29日:下総で第二次国府台合戦。
- 1564年3月11日:原虎胤死去。
- 1564年3月18日:黒田重隆死去。
- 1564年4月26日:ウィリアム・シェイクスピア洗礼。
- 1564年5月27日:ジャン・カルヴァン死去。
- 1564年7月25日:神聖ローマ帝国で皇帝フェルディナント1世崩御。
- 1564年(日付不明):尚寧王・浅井万福丸・北条夫人(武田勝頼室)誕生。
長宗我部元親は幼少期「姫若子」と嘲笑されたが初陣での活躍を機に「鬼若子」と呼ばれる様になるというが、その初陣が長浜表の戦いだった様である。
井伊直盛は井伊直虎の父であり、黒田重隆は黒田官兵衛(孝高/如水)の祖父である。
『おんな城主 直虎』や『軍師官兵衛』でも序盤に登場しているので、なじみの有る方もいるかも知れない。
また第四次川中島の合戦もこの頃であり、近年の大河ドラマでは『風林火山』で描かれたのも記憶に新しい(作品自体は十年以上も昔の作品なのだが、近年BSにて再放送されたので、そちらを視聴した諸兄諸姉もいるのでは、と)。
高政の死去は劇中でもナレーションで既に言及(いわゆる「ナレ死」)されていたが、時期的にはこの辺り。
この頃の欧州
ヨーロッパでは宗教改革運動が起こって幾分時間も経過してはいるが、フランスではこの時期に「ユグノー戦争」というカトリックとカルヴァン派プロテスタントの宗教内戦が起きており、それに貴族間の抗争も混ざってヴァロワ朝フランス王家が断絶する事となる。
また、そのカルヴァン派の思想形成上で大きく影響をもたらした神学者・カルヴァンもユグノー戦争開始から程無くして没している。
カトリック本部ではトリエント公会議を経て、プロテスタントによる宗教改革に対抗する自己改革(対抗改革)を図る運びとなり、従来の伝統の再確認や贖宥状(免罪符。ヴァチカンの聖ピエトロ大聖堂建設費確保の為販売され、後に宗教改革や三十年戦争の遠因にも繋がった)の販売禁止(ただし配布自体は継続)等を定めている。
東方の神聖ローマ帝国ではハプスブルク家のカール5世(1500年2月24日~1558年9月21日)が同国とスペイン王国を統治していたが、その後は弟のフェルディナント1世が神聖ローマ帝国、子のフェリペ2世がスペイン王国をそれぞれ継承し、ハプスブルク家は東西に分裂する。
カール5世とフェルディナント1世の兄弟の取り決めでは、フェルディナント1世の次代はフェリペ2世が継承する話だったが、これを無視する形でフェルディナント1世の子・マクシミリアン2世が継承。スペイン側もこれを容認した為、ハプスブルク家の分裂は一層の定着化が進んだ事となる。
スペインがカトリック教一色だった一方で神聖ローマ帝国はカール5世の代よりプロテスタントの対応に苦慮していた(隣国・フランスとの対応でそれどころでなかった)が、フェルディナント1世はプロテスタントに対して比較的穏健な政策を執ってカトリックとの両立を意図した様である。
スペインではフェリペ2世が対外的に反プロテスタント政策を進める一方、対抗改革に先んじて1534年に設立されたイエズス会ではカトリック教会内の刷新や高等教育機関の運営等と共に世界宣教活動を設立当初から行っていた様である。
日本におけるキリスト教の布教活動は1549年の薩摩が皮切りだが、この頃になるとフランシスコ・ザビエルと共に来日した宣教師のコスメ・デ・トーレス等が九州や山口で布教活動を行っており、大村純忠のキリスト教改宗や南蛮貿易の窓口として横瀬浦開港にもトーレスが関与している(尚、横瀬浦は1563年に宗教上の対立から焼き討ちに遭っている)。
畿内への布教もこの頃からであり、劇中の時期はトーレスの命を受けた宣教師・ガスパル・ヴィレラとその協力者のロレンソ了斎(邦人キリシタン。元琵琶法師)が足利義輝や三好長慶より京における宣教を許可された辺りと思われる。
後に戦国時代の日本の情勢を記録した宣教師・ルイス・フロイスが京に入るのはその後の1965年1月31日の事である。
次回「義輝、夏の終わりに」
時期的にはそろそろ1965年の「永禄の変」、すなわち義輝の退場が近づいて来る頃。
この折の義輝の逸話として、足利将軍家伝来の名刀の数々を何振りも畳に突き刺して待ち構え、向かって来る敵を斬っては捨てて斬っては捨てて、刀が切れなくなったら別の刀に取り替えてまた斬っては捨てて(以下省略)を最期まで繰り返したというものが有る。
ただしこれは江戸時代に記された文献に基づくもので史実としては信憑性が低く、本編での再現は必ずしも行われるとは限らない様に思われる。
以前よりSNS等では「松永久秀は最期に爆死するのかしないのか?」と期待の声が上がっている旨を確認しているが、筆者としては(久秀爆死を採り上げるならば)是非こちらもやっていただきたい次第である。