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『麒麟がくる』第24話考察

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はいどーも。SQでござい。
当方元々遅筆ではあるものの、ブログ自体も通常業務の傍らで打っている訳で、他業務を優先していたら二週遅れになってしまった次第。
いやー困ったもんだ。(苦笑)
ではでは、今回も遅れながら参りたく。

尚、今更ながらおことわり。
本考察は(元々世界史専攻だったので)日本史の知識に乏しい筆者が勉強がてら記した物です。
したがって世界史上で当時何が起きていたか等も見たいので、年月日は西暦(グレゴリオ暦導入前なのでユリウス暦)表記に換算して記載しますが、この点何卒あしからず。

"剣豪将軍"の最期

前回は二条御所へ襲い掛かるという所で終わったが、今回はその続きとしてアバンタイトルにいきなり義輝の大立ち回りから始まる。最初からクライマックスである。
この時の彼の奮戦振りは『信長公記』にも記述があり、(相手から奪った)薙刀で振るう辺りはルイス・フロイスの『日本史』の記述を採用したものと思われる。
尚、逸話として足利家秘蔵の名刀を何振りも畳に刺して待ち構え、向かって来る敵を斬っては捨てて斬っては捨てて、刃こぼれの都度別の刀に取り替えてまた斬っては捨てて(以下省略)を最期まで繰り返したという話が有名であり、筆者も期待していたのだが、逸話の出典元である『日本外史』自体が江戸時代後期の作であり信憑性に乏しく、本作では採用されなかった様である。
…と思いきや、どうやら制作側には別の意図が有った模様。

『麒麟がくる』義輝の最期、“畳に名刀”説を再現しなかったワケ 演出家が明かす

いずれにせよ壮絶かつ印象的な最期である事には変わり無い。

尚、永禄の変によりもたらされた将軍謀殺という結果が「前代未聞の出来事」という点は共通するが、史実における義輝謀殺は悲憤をもって世間を震撼せしめた様である。
朝廷は弔意による三日間の政務停止に加え、従一位・左大臣の位を追贈した。生前の義輝が従三位止まりだった事を思えば中々の特進である。
武士階級では特に上杉輝虎の憤慨が顕著であり、三好・松永の討滅を神仏に誓う程だったという(尚、これ程に義輝を支持していたらしい輝虎だが、永禄の変の前後は北条との抗争と越前における一向一揆の対応の最中だったと思われる)。
本編では孤立無援の"為政者"という色が濃かった義輝だが、いなければいないで困る存在だったのだろうか。

戦戦兢兢として、深き淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し

襲撃に際して義輝が詠んだ漢詩は『詩経』の小雅に含まれる「小旻」というもので、古代中国は西周の高官が時の王・幽王(西周末代の王。暗君として知られる)の無道振りを戒める内容である。
劇中で詠んだ一節はその内の末文だが、以下に全文を記載する。

旻天疾威、敷于下土。
謀猶回遹、何日斯沮。
謀臧不從、不臧覆用。
我視謀猶、亦孔之卭。
潝潝訿訿、亦孔之哀。
謀之其臧、則具是違、
謀之不臧、則具是依。
我視謀猶、伊于胡底。
我龜旣厭、不我告猶。
謀夫孔多、是用不集。
發言盈庭、誰敢執其咎。
如匪行邁謀、是用不得于道。
哀哉爲猶。
匪先民是程、匪大猶是經。
維邇言是聽、維邇言是爭。
如彼築室于道謀。是用不潰于成。
國雖靡止、或聖或否。
民雖靡膴、或哲或謀、或肅或艾。
如彼泉流、無淪胥以敗。
不敢暴虎、不敢馮河。
人知其一、莫知其他。
戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄氷。

内容を要約すると「余りに王の統治が酷いので、遂に天が罰を下してしまった。こうならない為にも、君子は知徳に優れた者や才有る者を適切に用いねばならず、慎重に政を執り行わねばならない。」といったところか。

将軍の器

今回も『ウルトラセブン』のサブタイトルとの関連は見受けられず。
一応特撮の括りでならば『怪奇大作戦』に「呪いの壺」が有るが、「器」と入れ物つながりだとしても苦しいか。

ワードの解釈としては、思うに将軍として求められる器量としての「器」と共に、武士勢力の意を受け政を動かす「器」という意味合いも織り込まれている様に見える。特に後者については筆者も「形式から見れば主従逆では?」と思わぬでもないのだが、鎌倉幕府にせよ室町幕府にせよ開府当初ならともかく末期になると執権や管領等に実権を奪われている有様なので、その辺りを考慮したい。

三好政権の傀儡の色濃く実力の乏しかった義輝は力及ばず凶刃に斃れた。
弟の覚慶は武芸に程遠く、現時点において目先の民を施すのが精一杯。
今回朝倉義景より覚慶の将軍としての資質の見極めを任された十兵衛だが、その答えとして覚慶の将軍職の適性に疑問を呈する結果を出している。

十兵衛の将軍観は置くとして、この時期将軍に求められた武士の意を受ける器としての価値は(三好政権が統治するにあたり利用したい)「権威」以外に大して価値を見出していない様で、武士勢力以外の公家や平民にとっては誰が輿の上に担ぎ上げられても大して変り無いという側面が浮き彫りになった模様。むしろ公家出身と思われる伊呂波太夫よろしく「各々擁立し合い鎬を削り合って共倒れすれば良い」という考えを持つ者すらいる様である。(この点、鎌倉幕府崩壊後に建武の親政を通して復権を目論む公家衆を筆者は思い出すのだが、流石に考え過ぎだろうか。)

流転の覚慶

永禄の変の後、松永久秀の取り計らいで興福寺幽閉に留められた覚慶だが、1565年8月23日に細川藤孝等と共に脱出し、近江国甲賀にいた将軍家幕臣・和田惟政(永禄の変以前に義輝の不興を買って謹慎中につき、政変の難を逃れていた)の居城・和田城に身を寄せいる。
この後、覚慶は12月13日に矢島(矢島御所)に至り、翌1566年3月8日に同地で還俗して義秋と名乗る(本編ではいきなり名を「義昭」としているが、この当時は「義秋」と名乗った様である)のだが、それは次回以降の話。

尚、本編では一度裸足で藤孝等のもとを抜け出して大和へ帰ろうとする描写が有るが、調べてみた限り当時の覚慶にその様な記録が見つからなかった為、これに関しては本作の脚色と思われる。
また、従五位下・左馬頭の任官を義栄に先を越された様に描かれているが、史実における義栄の任官許可は1567年2月3日(実際の叙任は2月15日)であり、一方義秋の叙位・任官は1566年5月10日と、義秋の方が早かった様である。もっとも、義秋がその後北陸で足止めを受けている間に義栄が将軍の座へ向け有利に進めたという構図は変わり無いが。

久秀の「曲がり角」

義輝謀殺への関与に松永久秀の名が見え隠れする様だが、久秀自身の要求は将軍職の放棄と京からの追放までで「殺しはしない」と十兵衛に明言したのは前回の話。
義輝の訃報に際しては関与の是非についてどちらとも取れる様なリアクションを示しているが、後々の動向を見るとどうやら本当に命まで取るつもりではなかった様である。

史実においても、久秀は永禄の変に際して覚慶に命は取らぬ旨の誓詞を出しており、この時の覚慶の処遇も興福寺へ幽閉する程度に留めている。一説によると、これは三好方が後任の将軍候補として擁する足利義親(義栄)とは別に自前で覚慶を担ごうとする久秀の意図が有ったとされるが、いずれにせよ義輝ばかりかその生母や末弟をも手にかけた三好方からはこれが手緩い処遇に見えたらしく、この後三好方と久秀との間に分裂が生じる事となる。本編にて「武士の世は大きな曲がり角に来ている」とのたまった久秀だが、久秀自身にとっても永禄の変は大きな契機だった様である。
1565年12月8日には三好家中の三好長逸・三好宗渭・石成友通(いわゆる「三好三人衆」)が若年の三好義継に迫って久秀を失脚させ、三好家中の実権を掌握。これを機に三好方と久秀との間で畿内の覇権を巡り権力抗争が始まる。
畿内の諸城主には久秀に味方する者が多くいたが、1566年には三好家中において久秀は孤立化しており、義親からも討伐令を出される有様だった。更に久秀の大和平定の折に追い出された筒井順慶も三好方と結び、1566年3月8日の堺近郊における上芝の戦いでは三好・筒井の連合軍に挟撃される形で久秀は敗退。この戦に先んじて久秀と同盟を結んだ畠山高政も三好と和睦し、畿内の松永方の諸城も同年8月までに相次いで落とされる(後に義親が入城する摂津の越水城もこの中に含まれる)等、永禄の変以降の久秀は暫く劣勢に立たされる事となる。

義秋の矢島入りは1565年12月の事なので、今回多聞山城にて十兵衛と謁見した時期は三好との抗争が始まる前段階の頃と思われるが、「将軍というものの威光が、人を、武士を動かす」という台詞は後に討伐礼を出される事を思えば中々に興味深い。

時に、この多聞山城でのシーンにて朝倉義景からの文を渡す描写が有るが、どうやら覚慶の大和脱出の背景として義景が裏で動いていた様である。
史実では義景が義輝謀殺を知ったのはその翌日6月18日のことであり、8月には若狭に出兵もしているが、その一方で覚慶の大和脱出の為に画策していたという旨の記述が大覚寺義俊(足利義輝の叔父)の上杉輝虎宛の書状(日付は8月5日=1565年8月30日)に存在する。実際に義景が久秀を通して十兵衛に文を充てたかは不明だが、今回この様な形を採ったのはこういった背景を踏まえてのことと思われる。

阿州公方・義栄

義輝の後継候補として覚慶の他に義栄なる人物の名が今回挙がったが、よく知らない人物なので少し見てみたい。

足利義栄は1538年(1540年説有)に足利義冬の嫡男として阿波国で生まれる。将軍家の義輝が1536年、義昭が1537年の生まれなので、彼等よりも更に年下という事になる。
初名は「義親」ないし「義勝」であり、「義栄」の名を使うのは従五位下・左馬頭に任官された1567年2月以降のことである。

父・義冬(一般に「義維」の名で知られる。1534年に「義冬」へ改名)は第11代将軍・義澄の子であり、第12代将軍・義晴とは腹違いの兄弟の間柄。つまり、義輝・義昭兄弟と義栄は従兄弟の間柄ということになる。
永禄の変より2年前の1563年頃に義冬は中風(脳卒中による後遺症)を患っており、義輝亡き後の将軍職は荷が勝ち過ぎるとされた為、代わりに子・義親を三好方と共に擁して自らは後見に回ったという。

永禄の変後、義親を擁する三好方は関白・近衛前久に接近し、前久も本編で吟味の末義親を推す描写が有るが、史実によると三好方は義輝を殺害する一方でその正妻(前久の姉)を保護しており、前久の義親推挙にはこれも加味されていた様である。

1566年6月、阿波より淡路へ渡海した義冬・義親父子は11月4日に摂津の越水城に入り、翌1567年1月17日には同じく摂津の普門寺城(現・大阪府高槻市)へ移動。義親は同地にて義栄へと改名し、上洛に備えつつ将軍宣下を待つこととなる。

続・信長の美濃攻略

前回の記事にて竹中半兵衛等による稲葉山城占拠の話を挙げたが、今回はその後の流れを見て行きたい。

稲葉山城占拠の後、同城は半年程で龍興のもとに返還されたが、これ以降斎藤方の離反が目立つ様になる。

1565年8月、信長が美濃に侵攻するとかねてより信長と内通していた佐藤忠能が離反。
前回の記事にて言及した、大沢次郎左衛門が守る鵜沼城も少なくとも1566年12月までには秀吉の誘降工作によって開城が完了している模様。
一方、岸信周への調略は失敗に終わり、1565年9月22日に彼の居城・堂洞城を落としている(堂洞合戦。信周は同合戦にて奮戦の末に自刃)。
信周と同盟関係にあった長井道利の居城・関城も9月24日に包囲された末陥落(道利は退去)したが、一説には城内に信長への内通者がいた為とも言われる。
この一連の流れを「中美濃攻略戦」と称すらしいが、この攻防を経て斎藤方はその勢力を西美濃一帯にまで縮小される事となる。

ちなみにこの頃の秀吉の動向として、いわゆる「墨俣一夜城」の逸話が有るが、関連史料に不明な点が多く(遅くとも1566年との事だが早くて1561年説も有る)、史実としての信憑性には乏しい。

この頃の情勢

今回は永禄の変が起きた1565年6月から足利義栄の従五位下任官の1567年2月までの期間に、世の中で何が起きていたのかを列挙してみたい。

  • 1565年
    • 11月23日:近衛信伊誕生。
    • 12月9日:ローマ教皇ピウス4世没。
  • 1566年
    • 1月7日:ローマ教皇ピウス5世就任。
    • 6月19日:スコットランドでジェームズ6世誕生。
    • 7月2日:ミシェル・ノストラダムス没。
    • 9月5日:オスマン帝国でスレイマン1世崩御。
  • 1567年
    • 2月8日:松平家康が徳川家康と改名。
      朝廷より従五位下三河守の官位受領。
    • 日付不明:真田信繁誕生。

近衛信伊は近衛前久の子である。
父・前久の政争の都合で幼年期を地方で過ごすが、後年長じて織田信長の加冠役のもと元服(1575年の前久帰京以降に恐らく彼も帰京か?)し、更に後年一時左大臣まで上ったところで二条昭実(二条晴良の子)と関白の座を争う事となるが、これに秀吉が介入し、結果関白職は秀吉の手に渡る。
これは歴代初の武家関白にして非・藤原氏、非・五摂家による関白誕生という事になるが、公家側から見れば700年続いた摂関家の伝統が途絶えた事にもなり、その一因を作った人物として朝廷内で孤立化した信伊は次第に精神を病んで左大臣を辞職する。
その後は肥前を経て薩摩に渡るが、ここで島津義久の厚遇を受け、後年の関ヶ原の戦いでは敗軍の将の一角となった島津家の事後処理に一役買った模様。
更にその後、信伊は1601年に左大臣に復職し、1605年には久しく遠のいていた関白に就任している。

西欧のブリテンではまだイングランドとスコットランドが統合される前の状態であり、イングランドの方はテューダー朝末代のエリザベス1世、スコットランド方はステュアート朝第8代のメアリ1世の治世である。特にメアリの方はこの頃従弟のダーンリー卿ヘンリーと結婚した頃だが、結婚後ヘンリーのだらしない性格が露見すると両者の関係は一気に冷え込み、メアリは次第にピエモンテ人の秘書・デイヴィッド・リッチオを寵愛する様になる。
後に王位継承するジェームズ6世はその渦中でメアリとヘンリーの子としてこの頃に生まれたが、当時よりリッチオの子ではないかという噂が存在し、長じた後も「ソロモン」(古代のイスラエル王国第3代王。第2代ダヴィデの子)の名で呼ばれる事が有ったという。(尚、リッチオはジェームズ懐妊中にメアリの目前で謀殺されている。)

西アジアのオスマン帝国では第10代スルタンのスレイマン1世の治世が帝国の最盛期であるが、彼が没した後も依然として強大であり、後年イオニア海にて地中海の覇権を巡り欧州のカトリック諸国連合と激突する事となる。

松平竹千代は元服の折、今川義元の偏諱を受け「次郎三郎元信」と名乗り、後に「蔵人佐元康」と名を改めた。
(ちなみにこの「康」の字は祖父・清康からの偏諱だが、この清康の代で松平家は今川家に従属している。)
しかし桶狭間での義元敗死を経て1563年には「家康」と改名。「家」の字の由来は定かではないが、一説には母・於大の方の再婚相手にして義父となった久松長家(俊勝)からの偏諱ではないかという見方も有る模様。
大名としての松平家は家康より8代前の松平家初代当主・松平親氏に始まるが、彼は三河国松平郷の庄屋・松平信重の婿養子となって松平の名跡を継承する形で名乗るものであり、その出自は平安末期~鎌倉時代の御家人で清和源氏新田流の得川義季の後裔とされる。松平家第3代当主・信光の代では、彼の子を分立させて松平の分家を三河各地に配したが、家康はこの内の安祥松平家第6代当主に当たる。
1566年までに三河を統一した家康は、翌1567年には朝廷より従五位下三河守の任官と共に、得川から更に嘉字に変えた上で「徳川」の復姓(事実上の改姓)を朝廷にに働きかけて認められた。但しこれは家康個人(あるいは家康以降の家系)にのみ認められたものであり、他の松平諸家は引き続き松平姓のままとされた。これにより家康の存在は松平一族の中でも別格化し、松平諸家を親族ではなく家臣の格に当たる「譜代」待遇として一族の統制に成功したとされる。
尚、三河守任官に際しては朝廷の慣例上の都合で本姓を源姓から藤原姓へ一時的に変更しているが、これには家康より助力を依頼された近衛前久の関与も影響していた様である。

真田信繁は後世の軍記物にて「真田幸村」の名で知れ渡る人物であり、大坂の陣では晩年の家康の前に立ちはだかる人物でもある。近年では『真田丸』(2016年)にて主役となった事が記憶に新しい。

次回「羽運ぶ蟻」

今回は覚慶自身の意思が定まっていなかったか、更には十兵衛の言も有ってか覚慶の将軍の座も遠のくかに思えたが、覚慶自身も次第と多少心境に変化が訪れるものと思われる。
次回も楽しみな次第である。

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