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『麒麟がくる』第23話考察

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はいどーも、SQでござい。
前回の22話に続き、今回も一筆とって見る次第。
(もっとも、これを投稿している時点で本編は24話まで放送と周回遅れしてますが。)
今回は前回ほど長くもならないのではと。

義輝、夏の終わりに

今回のサブタイトルは「義輝、夏の終わりに」。
前回の記事にて、『麒麟がくる』のサブタイトルは『ウルトラセブン』のそれのオマージュ説に関する言及をしたものの、今回そちらは該当せず。
ただ、ウルトラセブンにこだわらなければ「タンゴ・冬の終わりに」という名の舞台作品が在る訳で、もしかすると今回はそちらが元ネタなのかも知れない。
一応セブン絡みで何か関連していないか調べてみた所、一応本作を制作した清水邦夫氏が『泣いてたまるか』というドラマでセブンの脚本を担った金城哲夫氏と共に脚本を担当した回が有る模様。逆に言えば関連はそれだけしか見出せなかった次第。
実の所、『麒麟がくる』のサブタイトルはセブンオマージュ説に該当しない回も有るので、傾向の把握には今後のリリース状況を見て分析したく思う。

秀吉、邂逅

木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は第13話にて既に登場しているが、今回にて初めて十兵衛と顔を合わせる事となる。後年山崎の合戦で激突する事を思えば何とも感慨深い出会いである。
藤吉郎の信長への仕官は1554年頃からとされており、1561年にねね(おね/祢/寧。諱諸説有り)と結婚して今回の1564年時点では足軽組頭辺りと思われる。
信長が美濃侵攻の最中にある点を加味すると、斎藤方の大沢次郎左衛門の誘降工作の辺りだろうか。

尚、今回言及の有った六角氏の家臣が結局誰なのかは特定出来ず。
『太閤記』によれば若き日の藤吉郎に武芸や学問を教えた人物として松下之綱なる人物がいるが、彼は当時今川の家臣の又家臣というポジションだった様である。
六角氏という観点では一応六角義秀(六角氏13代当主・氏綱の子ないし孫とされる)なる人物が放浪期の藤吉郎を召抱えたという記述が『江源武鑑』という史書に有るが、本書は一般的に偽書とされ史実としての信憑性は低い。

また、秀吉は数々の作品で「人たらし」として描写される事多々であるが、十兵衛への接待振りを見るとどうやら本作でもそのキャラクターを踏襲している様である。

信長の美濃攻略

この頃の信長の動向として美濃攻めの最中という事が劇中で紹介され、紀行でも小牧山城や斎藤龍興等が紹介されたので、こちらも触れておこうと思う。

斎藤道三が子・高政に敗死して以降信長と斎藤家の関係は悪化しており、どうやら美濃攻め自体は桶狭間の戦いの前後辺りから既に始まっていた様である。
高政存命中は一進一退の様相だったが、1561年6月23日に高政は急死。一説によれば高政はかねてよりハンセン病に罹患していたという。
高政没後の美濃は子の龍興が14歳で家督を継いだが、若年の上に道三や義龍と比べると凡庸な人物だった様で家臣からの求心力はさほど高くもなかった模様。

こういった斎藤方の事情も有ってか、信長は美濃へ再度出兵し1561年6月26日には森部で斎藤方と交戦(森部の戦い)。
その一方で斎藤家の牽制として北近江の浅井長政とも同盟を結んでおり、信長の妹・市の輿入れもこの時期とされる(但し婚姻時期は遅いもので1568年説と諸説有)。
尚、本編でも一度登場した前田利家はこの間に信長寵愛の茶坊主を斬ったカドで一度出仕停止処分を受けていたが、この森部の戦いに無断で織田方に参戦して首級を上げ、帰参を許されたという。

1562年、信長は三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟(清洲同盟)を結んで背後を固め、1563年7月には清洲城からより美濃に近い小牧山城へ本拠を移して美濃攻略を進める。
本編にて今回十兵衛が信長の元を訪れたのはそれから1年程度経過した頃だろうか。

1563年4月の新加納の戦いでは数の上で織田方の優勢と見られたが、結果は斎藤方の勝利に終わった。
この勝因には当時斎藤家に仕えていた竹中半兵衛(重治)の伏兵策が大きいとされるが、龍興は彼への褒賞も与えずぞんざいに扱ったという。
この様な経緯も有って、1564年3月28日には半兵衛等により一度居城の稲葉山城を奪取・占拠され、龍興は城を追われる目に遭う。
およそ半年後に稲葉山城は龍興の元に返還されるが半兵衛は出奔し、斎藤方の弱体化が進んで行く事となる。
竹中半兵衛は後年、黒田官兵衛と共に秀吉配下の参謀として活躍する人物なので、本編の登場が待たれる次第である。

庭の紅葉、秋の到来

ある日目が覚めると家臣も近侍も誰もいなくなった二条御所、薄暗い屋内から外へ目をやると一際目立つ庭の紅葉の赤。
まるで取り残されたかの様なこの紅葉の存在感は義輝自身の暗示にも見え、同時に季節の変わり目を明確に思わせる。
十兵衛との別れのシーンでもこの「薄暗い屋内と庭の紅葉」という対比の構図が用いられ、秋の到来と共に場の寂しさを一層印象付けている。

「夏は終わった。儂の夏は。」

ここで言う「夏」は「朱夏」(人の一生を四分割して、「青春」の次に訪れる時期。一生の最盛期に当たる頃)のことと思われる。
これから訪れるだろう「白秋」の日々に思いを馳せてか、十兵衛に「この後も生ある限り幕府を支えて見せる」と(朝倉義景への言伝という形ながら)のたまった義輝だが、彼の余生は程無くして「白秋」を一気に通り越して「玄冬」を迎える事となる。

尚、聞けば実際の京の紅葉は11月半ば頃辺りとの事。
このシーンもその頃とすれば、永禄の変までおよそ7ヶ月程度だろうか。

今回登場の和歌

大河ドラマでは劇中に和歌が詠まれる事がしばしば有るが、近年は傾向として特に顕著の様に思われる。
記憶の限りでは『平清盛』(2012年)辺りから字幕付きでも紹介される様なったと思われ、大して歌の教養等も無い身としては何とも有難い限りである。
そしてどうやら本作でも健在の模様。こちらも勉強がてら覘き込んで見たい。

我が宿の花橘は散りにけり
悔しき時に逢へる君かも

――『万葉集』雑歌

歌自体はどうやら逸した時期に相手と逢った事を惜しむ心情を詠ったものの様だが、後のシーンで十兵衛との邂逅の遅さを嘆く義輝を見るとこの歌の存在が妙に際立つ様に思われる。
ちなみに橘の開花期は5月~7月頃で、初夏~夏の時期の花である。
ここでも夏の終わりをにおわせる。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる

――『古今和歌集』藤原敏行朝臣

立秋(8月初旬)に臨んで詠まれた歌とされる。
目には見えずとも、秋の到来を風の音で確かに気づいたという内容だが、今回の本編では鈴虫の鳴き声がそれを思わせる。

なぜ義輝は見限られたか?

市井の人心や地方で抗争を展開する諸大名(信長等)はともかく、久秀や藤孝はじめ幕府の近臣が何故義輝から離れて行ったのか少々説明不足の様に感じられた。
三好長慶没後の義輝の動向を見てみると、将軍による直接政治を通しての幕府復権に固執していたフシが有り、長慶の後継・義継等の三好勢力にとっては邪魔な存在だった様である。
本作において、長慶に代わり義輝を支える立場に立った(らしい)松永久秀は、その役目に「疲れた」と愛想の尽きた様子だったが、差し詰め幕府と三好勢との間に挟まれた構図といった所だろうか?

藤孝の方は今回だけ見るといきなりの見限りで面食らった印象ながら、前の22話を見てみると相談も無しに独断専行する義輝の尻拭いに困る言質が有ったので、恐らくこれが見限った遠因と思われる。
兄の三淵藤英は今回登場していなかったが、藤孝同様義輝の軽挙妄動を警戒していたので描写こそ無かったものの今回までに離反したと見るのが自然だろうか。

この頃の情勢

今回は三好長慶の没した1564年8月から永禄の変の起こる1565年6月までの期間に、世の中で何が起きていたのかを列挙してみたい。

  • 1564年
    • 8月21日:長尾政景溺死。
    • 9月:第五次川中島の戦い。
  • 1565年
    • 1月19日:ディエゴ・ライネス没。
    • 1月31日:池田輝政誕生。
    • 3月1日:リオ・デ・ジャネイロ市建設。
    • 日付不明:本多正純・森蘭丸・呂宋助左衛門誕生。

長尾政景は上杉輝虎(謙信。1542年初頭に足利義輝の偏諱を受け改名)の遠縁で
輝虎の姉・桃(仙洞院)の夫。後の五大老・上杉景勝の実父でもある。
1560年時点で輝虎の居城・春日山城の留守居役に任じられていたが、1564年夏に越後の坂戸城近くの池で謎の溺死を遂げている。
舟遊び中に泥酔して溺れ死んだとも輝虎の差し金による謀殺とも言われているが、はっきりとはしていない模様。

信濃では第四次に続く第五次川中島合戦が行われたが、およそ二ヶ月間の睨み合いの末に両軍撤退している。
激戦だった第四次以降上杉・武田の両勢力は直接の交戦を避ける傾向に有り、上杉輝虎は関東方面、武田信玄は東海道・美濃方面への勢力拡大を進める事となる。

呂宋助左衛門は大河ドラマ的には『黄金の日日』(1978年)の主人公として知られるだろうが筆者の生まれる前の話であり、唯一近年の『真田丸』(2016年)にて確認出来たのみである。
本作では彼の一世代上の今井宗久が今後登場予定とされる。助左衛門の本作登場の可能性は彼(や恐らく出るだろう千利休等、堺の商人)がどう描かれるか次第といった所だろうか?

欧州ではイエズス会第2代総長のディエゴ・ライネスが没し、後任にはボルジア家出身で元貴族(バレンシア王国第4代ガンディア公)のフランシスコ・ボルハが第3代総長として正式に就任した。
ボルハは就任後教皇や諸王のアドバイザーとしてカトリック修道会全体を指導する等大きな影響力を及ぼし、後世初代のロヨラに次いで評価の高い総長として知られる事となる。

新大陸のブラジルは1500年の発見以来ヨーロッパによる植民地化が進んでいたが、現在のリオ・デ・ジャネイロにポルトガル人が入植したのは1502年以降と思われる。
その後1565年頃にサンパウロ等と同時期に市として創設されるが、リオは暫くの間製糖を主産業とする小規模な港町だった様である。
リオ発展の転機は18世紀前半にブラジル内陸で金鉱発見された事に始まる。
これにより採掘地とリオを結ぶ道が新たに開通されると金の集積地港として発展し、1763年にはブラジル植民地首府となる。

次回「将軍の器」

前回言及した「永禄の変」もいよいよかと思われたものの、今回は三好義継が攻めかかるところで終わって義輝の退場は次回以降の模様。
一方、義輝の弟・覚慶にも次第とスポットが当たって行く様である。
次回も楽しみな次第である。

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